|
カテゴリ:旅行 愛媛県
松山 正岡子規・二之丸庭園
「坂の上の雲」の街、松山を散策します。 司馬遼太郎さんのこの作品は正岡子規 秋山好古、真之兄弟3人の人生をたどり ながら明治時代の日本が描かれています。 正岡子規 年表 1867年慶応3 10月14日松山に生まれる 1870年明治3 妹の律が生まれる 1872年明治5 父、隼太常尚、死去 1883年明治16 松山中学校を退学し東京に行く 1884年明治17 東京大学予備門に入学 1885年明治18 このころから俳句を作り始める 1888年明治21 肺の病気ではじめての喀血 1889年明治22 同級生の夏目漱石と親しくなる 結核と診断される。子規の号を使いはじめる 1890年明治23 帝国大学文科大学に入学(東京大学) 日本新聞社へ入社 1894年明治27 上根岸に引っ越し、子規庵を構える 新聞「小日本」の編集責任者になる 1895年明治28 日清戦争の従軍記者として金州に赴く 1896年明治29 脊椎カリエスと診断される 1897年明治30 俳句雑誌「ほととぎす」発行 1898年明治31 「歌よみに与ふる書」発表 1901年明治34 随筆「墨汁一滴」を連載 日記「仰臥漫録」を書き始める 1902年明治35 随筆「病牀六尺」を連載 9月19日、死去 伊予鉄松山駅の近くにある子規堂に 向かう途中に「大原観山住居跡」 子規の祖父で子規は幼いころより 教育(漢文)を受けた。 ![]() 子規堂のある正宗寺 お寺の敷地内に建てられています ![]() 同じ敷地内にある 坊ちゃん列車 伊予鉄道より寄付された車体 ![]() 子規や漱石も座ったであろう車内 椅子も木製で硬い ![]() ![]() 子規堂 子規が状況するまで過ごした 住居を敷地内に再現した。 ![]() 正岡家は松山藩の中では「御馬廻役」 下級武士の階級であった。 ![]() 子規は明治に入っても 幼少期は髷を結っていた。 ![]() 子規の部屋を再現3畳ほどのスペース ![]() 子規と母親の写真 明治の時代、身分制度がなくなり 人の移動や移住も自由になると 若者は次々と東京に旅立った。 子規も当初は政治家を目指して 上京した。ちなみに当時松山から 東京まで船で4日かかった。 ![]() 子規が子供のころから絵を書くのが 好きでした、特に病気になり寝たきり になると絵を書く事は大切な楽しみの ひとつでした。 ![]() 身の周りの物を描くことが 多かった ![]() 子規と仲間たち ![]() 弟子の高浜虚子や河東碧梧桐の姿も ![]() 子規両親の墓 子規堂の隣の墓地 ![]() ![]() 場所を移動して道後温泉近くの 子規記念博物館 松山の歴史と正岡子規の歴史を 知ることができます、写真撮影不可 各種資料や映像なども駆使されており 大変分かりやすい施設です。 ![]() 松山城二之丸庭園に移動しました。 二之丸は本丸(天守)を防備するための施設 南と西側には内堀があり、高い石垣と強固な 櫓や門、塀によって囲まれ、その内側には 藩主の生活や政務の為の二之丸邸がありました。 ![]() 天守は勝山(城山)の頂上に建つ 二之丸はほぼ勝山の麓に建っており 天守からは少し離れています。 ![]() 庭園入口 遠くには伊予鉄松山駅の 大観覧車がみえます。 ![]() 3代目からは徳川家の血筋 幕末は幕府側につき長州藩 とも戦った、 ![]() 恋人の聖地に認定 日ロ戦争時のロシア人捕虜の男性 と日本人看護婦のロマンスを秘めた 金貨が大井戸より出土したことで 2013年10月1日「恋人の聖地」と してNPO法人地域活性化支援センター に認定されました。 この日も結婚式の前撮りカップルが 撮影されていました。 ![]() ![]() 庭園内は昔の間取りが分かり 易いように水によって仕切られ ています ![]() 奥の山の上に天守がみえます かなり離れています。 ![]() 二之丸から見た天守 ![]() 天守に登る道
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.06.09 06:21:51
コメント(0) | コメントを書く
[旅行 愛媛県] カテゴリの最新記事
|