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2020.04.03
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カテゴリ:旅行 愛媛県
松山 正岡子規・二之丸庭園

「坂の上の雲」の街、松山を散策します。

司馬遼太郎さんのこの作品は正岡子規

秋山好古、真之兄弟3人の人生をたどり

ながら明治時代の日本が描かれています。


正岡子規 年表

1867年慶応3  10月14日松山に生まれる

1870年明治3  妹の律が生まれる

1872年明治5  父、隼太常尚、死去

1883年明治16  松山中学校を退学し東京に行く

1884年明治17  東京大学予備門に入学

1885年明治18  このころから俳句を作り始める

1888年明治21  肺の病気ではじめての喀血

1889年明治22  同級生の夏目漱石と親しくなる
         結核と診断される。子規の号を使いはじめる

1890年明治23  帝国大学文科大学に入学(東京大学)
         日本新聞社へ入社

1894年明治27  上根岸に引っ越し、子規庵を構える
         新聞「小日本」の編集責任者になる

1895年明治28  日清戦争の従軍記者として金州に赴く

1896年明治29  脊椎カリエスと診断される

1897年明治30  俳句雑誌「ほととぎす」発行

1898年明治31  「歌よみに与ふる書」発表

1901年明治34  随筆「墨汁一滴」を連載
         日記「仰臥漫録」を書き始める

1902年明治35  随筆「病牀六尺」を連載
         9月19日、死去


伊予鉄松山駅の近くにある子規堂に

向かう途中に「大原観山住居跡」

子規の祖父で子規は幼いころより

教育(漢文)を受けた。




子規堂のある正宗寺

お寺の敷地内に建てられています





同じ敷地内にある

坊ちゃん列車

伊予鉄道より寄付された車体



子規や漱石も座ったであろう車内

椅子も木製で硬い








子規堂

子規が状況するまで過ごした

住居を敷地内に再現した。



正岡家は松山藩の中では「御馬廻役」

下級武士の階級であった。



子規は明治に入っても

幼少期は髷を結っていた。



子規の部屋を再現3畳ほどのスペース



子規と母親の写真

明治の時代、身分制度がなくなり

人の移動や移住も自由になると

若者は次々と東京に旅立った。

子規も当初は政治家を目指して

上京した。ちなみに当時松山から

東京まで船で4日かかった。



子規が子供のころから絵を書くのが

好きでした、特に病気になり寝たきり

になると絵を書く事は大切な楽しみの

ひとつでした。



身の周りの物を描くことが

多かった



子規と仲間たち



弟子の高浜虚子や河東碧梧桐の姿も



子規両親の墓

子規堂の隣の墓地






場所を移動して道後温泉近くの

子規記念博物館

松山の歴史と正岡子規の歴史を

知ることができます、写真撮影不可

各種資料や映像なども駆使されており

大変分かりやすい施設です。




松山城二之丸庭園に移動しました。

二之丸は本丸(天守)を防備するための施設

南と西側には内堀があり、高い石垣と強固な

櫓や門、塀によって囲まれ、その内側には

藩主の生活や政務の為の二之丸邸がありました。




天守は勝山(城山)の頂上に建つ

二之丸はほぼ勝山の麓に建っており

天守からは少し離れています。



庭園入口

遠くには伊予鉄松山駅の

大観覧車がみえます。





3代目からは徳川家の血筋

幕末は幕府側につき長州藩

とも戦った、




恋人の聖地に認定

日ロ戦争時のロシア人捕虜の男性

と日本人看護婦のロマンスを秘めた

金貨が大井戸より出土したことで

2013年10月1日「恋人の聖地」と

してNPO法人地域活性化支援センター

に認定されました。

この日も結婚式の前撮りカップルが

撮影されていました。







庭園内は昔の間取りが分かり

易いように水によって仕切られ

ています



奥の山の上に天守がみえます

かなり離れています。




二之丸から見た天守




天守に登る道






金貨が発見された大井戸







・ロシア兵ミハイル・コステンコ中尉

・日本人看護婦 タケバ・ナカさん

2人の名前が刻まれていました、2人の

恋は長く続きませんでした、2人の関係

が周りに伝わるとコステンコ中尉は静岡

へ移送され、タケバさんは看護婦を解雇

され宇和島の実家に帰されました。




日ロ戦争時初めての捕虜4000人

が松山に送られます。

当時松山の人口は3万人ですので

かなりの人数になりました。

当然収容施設もありませんので

寺や神社や二之丸などが使われ

ています。

また、バーグ条約によって捕虜

たちは手厚い保護が実施されました

道後温泉につかったり、海水浴

も可能でした。



捕虜の内98人は日本で亡くなっています

松山市の郊外に今もロシア人墓地があります




98人のお墓

全員同じ方向(祖国ロシア)を向いています。




今も地元の学生やボランティアがお墓を

清掃されており綺麗に管理されています。





昨年はミハイルとナカさんのロマンス

が映画化されています。

「ソローキンの見た桜」

松山観光の前に見ると効果的

ラストは感動物

レンタルビデオもありました



最後は道後にある

湯築城跡

中世にこの地を治めていた河野氏

が築いた城跡、現在は公園として

整備されています。





公園は1周できるようになっており

地元の高校生が部活で走っています




道後温泉本館

3000年の歴史を持つ日本最古の温泉

聖徳太子も訪れました。

国の重要文化財(現在修復中)



道後温泉駅前の名物

「カラクリ時計」



来月も所要で松山を訪れます。

①それまでに買ったままにしてある

「坂の上の雲」8巻を読破する

②正岡子規の句を詠んでみる

 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺

 など有名な句しか知らない

今はコロナの影響で自宅で過ごす時間を

有効に使いたいと思います。






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最終更新日  2024.06.09 06:21:51
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