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2024.03.16
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カテゴリ:旅行 東京
今回東京訪問の目的の一つに以前から行きたかった
ジョン万次郎さんのお墓参りに行ってきました。
有名人が多く眠る雑司が谷霊園にあります

​ジョン万次郎(1827年~1898年・明治31年)​





高知の土佐清水生まれの漁師
14歳の時初めての漁で遭難し無人島(鳥島)に漂着

アメリカの捕鯨船に救出されハワイ経由でアメリカ本土
に日本人として初めて渡る。

救出された船のホイットフィールド船長の支援を受け
アメリカで語学(英語)・航海術などを学ぶ。

アメリカ本土でお金を貯め、日本への帰国を果たす

幕末に帰国後は英語やアメリカの工業技術や航海術

など教育を広め日本の近代化に貢献した。


雑司が谷霊園に到着
池袋から電車で10分




霊園内はグーグルマップを頼りにジョン万次郎
のお墓まで
たどり着けました。(令和6年2月訪問)



歴史を感じるお墓
東京大空襲の影響で少し石が欠けている
新しい花が生けてありました。



こちらも空襲で壊されている




昭和3年には正五位が贈られる



以前高知を旅した時にジョン万次郎に関連した
場所を訪問した、土佐清水のトンネルを抜けると
太平洋が広がる。(令和3年訪問)



四国最南端足摺岬にはジョン万次郎の銅像
(太平洋側を向いている)

室戸岬には中岡慎太郎、桂浜には坂本龍馬
の銅像





日本帰国後の姿か?
髪は洋風、服は和装



手に持っているものは?
航海に必要なコンパス

フリーメイソンの一員ではないか

との説もある

地元では「ジョン万次郎」を大河ドラマ
実現に向けて色んな運動されているようです




足摺岬から見た太平洋の眺め



足摺岬から近い万次郎の生まれ故郷
中の浜地区に向かいます

ジョン万次郎=中濱万次郎
苗字の中濱は地名の「中の浜」より



​中の浜は現在も小さな漁師の集落​



復元されたジョン万次郎の生家がある




たぶん明治時代から変わらない道や区画



復元された万次郎の小さな生家




中も土間の厨房と6畳くらいの部屋1つ
裕福な暮らしではなかった



「中の浜」の港
この日は凪でしたが、太平洋直結なので
大きな防波堤がいくつも設置されている



「中の浜」は足摺岬から車で15分
高知市内から2時間




中の浜から20分土佐清水市にある
「ジョン万次郎博物館」
想像以上に立派な建物



万次郎は14歳で初めての漁に出て遭難
小さな漁船で1週間さまよい無人島(鳥島)
に漂着する

小さな無人島なので水の確保が難しく船員たちの

小便も岩にためて喉の渇きを潤した。

渡り鳥のアホウドリを食料にした、人間に対しての
警戒心がなかったため容易に捕まえる事が出来た



アメリカの捕鯨船に救出される
肉を食べる為に獲るのではなく鯨の油を採取
する為に鯨を捕獲、鯨油以外の肉などは廃棄
していた。

アメリカでは鯨油を工業製品の潤滑油や照明
油などに使用、価値があり高値で取引されて
いた。

当時の捕鯨船、万次郎たちは救出され捕鯨を
続けながら
ハワイに下された。



アメリカ本土で船長の補助で教育をうけ
再度捕鯨船に乗り世界中を航海。

ゴールドラッシュに沸くカリフォルニア
で金を採掘し資金を貯め日本帰国を決意

アメリカから中国行の商業船に搭乗し太平洋を
渡り沖縄に向かった、当時は薩摩藩に支配されて
いた琉球王国ですが、一旦琉球に入国してから
日本本土に向かう方が容易なことから
沖縄を目指す

沖縄近辺からは万次郎が購入した小型船
「アドベンチャラ号」で沖縄に上陸



沖縄滞在後は鹿児島(薩摩)へ移動
藩主の島津斉彬とも面会している
斉彬は西郷隆盛や大久保利通が慕っていた殿様
西洋の近代技術を積極的に取り入れた。
万次郎から話を聞いた斉彬は蒸気船の模型を
造らせたという。



薩摩藩の次におくられたのが長崎奉行所
幕府直轄の奉行所での取り調べ

9か月後に無罪放免になりようやく生まれ
故郷に帰る
ことが出来た




土佐に戻った万次郎は土佐藩に歓迎され
万次郎の経験を聞き取り、河田小龍が

「漂巽紀畧」にまとめ藩に提出





土佐から中浜に帰り母親と再会する
漂流してから11年の歳月がたっっていた



万次郎が帰国した翌年に黒船が来航
幕府は日本で唯一英語が話せる万次郎
に通訳をさせるはずであったがアメリカ
のスパイ容疑をかけられ実現しなかった。

ペリーとの通訳は双方が一旦
オランダ語に
変換して会談を行った。
英語~オランダ語~日本語



万次郎が書いたアルファベット(写し)
最後の&が?
資料館の人に聞くも分からず

いまも子供が歌うABCの歌は万次郎

の作曲らしい。




沖縄の万次郎上陸地点
摩文仁の海岸線にある小渡浜
(令和3年訪問時)




現地にある案内版



万次郎は陸側を指差している

海岸の浜辺では米軍関係者が大勢

サーフィンを楽しんでいた



場所は那覇から車で30分
摩文仁の平和祈念公園の近く



沖縄では現在の豊見城市の民家に滞在
地域の人々から歓迎を受けた
「ジョン万次郎音頭」まで伝わっている

滞在中は訪米時の事情聴衆であったが

好待遇で迎えられる




滞在した家屋の翁高安家の
ヒンプン(目隠しの塀)は
いまも現存しています。



首里城がある那覇の隣町の
豊見城市に滞在した



これまで訪問した場所(点)が線で
繋がていく、最近ジョン万次郎は
坂本龍馬にも大きな影響を与えたの
ではないかと研究が進んでいる。

二人が出会った記録は存在しないが
万次郎が訪れた薩摩、長崎、土佐
や万次郎が出会った人々と龍馬には
深い繋がりがあった。

たまたま見た足摺岬のジョン万次郎像から

ここまで繋がった、機会があればさらに
関連した場所(点)や人を訪問する予定。





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最終更新日  2024.03.16 08:26:36
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