哲学学習13 『歴史哲学講義』序論 唯物論的歴史観の原材料
哲学学習13 『歴史哲学講義』序論ノート8ドイツ古典哲学のヘーゲル『歴史哲学講義』序論を学習しています。いま私たちは、新型コロナの世界的な大流行で、政治経済、社会全体が、大きな生活存亡にかかわる渦中の最中にあります。そんな時にヘーゲルだ、哲学だなんて・・。ギャップがあるのは承知なんですが。しかし、私などは、こんな時だからこそ、哲学の学習も大事じゃないかと思っています。さて今回は、B「歴史における理性とは何か」(b)「精神がその理念(自由)を実現する手段」です。岩波文庫の『歴史哲学講義』(長谷川宏訳)の、P43から71です。ヘーゲルの『歴史哲学講義』ですが、A「歴史のとらえ方」では、「理性が世界を支配しつづけている」(P33)との思想を提起して、その次のここでは、B「歴史における理性とはなにか」を問うています。前回のB「理性とは何か」の(a)「精神の本性の抽象的定義」では、「世界史とは自由の意識が前進していく過程であり、わたしたちはその必然性を認識しなければならない」との問題を提起していましたが、その最後部分で「(自由の実現の)究極の目的にむかって世界史は仕上げられていくし、これへのささげものとして、地球という広い祭壇の上に、長い年月にわたって、ありとあらゆる犠牲がささげられる」(P42)などとの言葉を述べていました。その上で、さらに「自由の理念はなにを手段として自己を実現するか」と、その次の問題を提起していました。今回は、そうしたことで、その(b)「自由(理念)を実現する手段」です。一、問題への糸口最初に、P43「自由は内面的な概念でもあるが、それを実現する手段は、外面的な現象として歴史のなかで直接に目の前にするのは人間の行動である」。「その人間を行動に駆り立てる動機は、欲望、情熱、利害ののほかにない」と指摘して、歴史のなかでの人間の行動と、その行動の動機ということが提起されています。さらにヘーゲルは一つの問題を提起します。私たちが歴史をながめてみると、「人間精神の手になる最上の王国が没落していくのをみる」、そこに「恐るべき地獄図絵の観」をみせつけられる。では「このおそるべき犠牲は、だれのために払われ、どんな最終目的のために払われたのか」との問題ですが。ここからヘーゲルの「自由(理念)を実現する手段」についての考察が始まっていきます。ヘーゲル自身の答えですが、「この地獄図絵は、それが、歴史の実体的ねらい、絶対的な究極目的、ないし真の結論を提供する」ものだった。そこには避けられない必然的なものがあったし、歴史を探る糸口があるというと、ヘーゲルは見ているわけですが。ここでヘーゲルは注意をのべてます。P46「精神の原則、法則は内的なもので、その内実が真理であっても、いまだ完全に現実的なものとはいえない。目的や原則などは、私たちの思考のうち、私たちの内面的な意図のうちに存在するだけで、いまだ現実には存在しない。潜在的なものは、一つの可能性、一つの能力であって、いまだ内面を出て存在へといたっていない。それが現実的なものになるには第二の要素、実現のための活動が必要で、その原理となるのが人間の意思ないし活動力です。精神の概念とその潜在的な内容は、人間の活動によってはじめて実現する」と。二、さてその活動ですが、ヘーゲルはどの様な活動が必要なのか、その要件を考察しています。P47「活動する個人が、自分の活動に満足しなければ、なにも生じないし、なにも実現しない」「自らの活動を通じて事業に参画してくれるような、人々の関心がよびおこされなかったら、何ごとも生じない」、また「世の大事業は情熱なくしては、成就されない」と。しかし、ヘーゲルはこれだけではたりないと感じているようです。P50「情熱は、精神力、意思、活動力といった主観的ないし形式的側面をあらわし、その内容、目的はまだ曖昧だ。個人の確信、洞察、良心も同じく曖昧だ。大切なのは、私の確信がどんな内容のものか、私の情熱がどんな目的をもつのか、その目的が真なるものか」そうした中身が問題だと。〔ここまでの範囲では、自由を実現する活動について述べていることは、一般的なもので、必要条件であって、ヘーゲル自身も述べているように曖昧なものです。次に、ヘーゲルは国家の領域においての自由を実現する活動について考察しています〕いちいち紹介すると長くなりますので、以下三点くらい紹介させていただきます。一つは、唯物弁証法や唯物史観と接近していると感じる箇所です。1、P51「世界史は人間の特定の集団の場合と違って、なんらかの意識をもってはじまりはしない」2、同「精神の概念を満足のいくように実現するという世界史全体に通じる目的は、潜在的に、つまり自然のごとくに存在するにすぎない。それは、内面の奥の奥にある無意識の衝動であって、世界史のいとなみ全体が、この衝動を意識にもたらす作業だ」。3、同「途方もなく多量の意思や関心や活動こそ、世界精神がその目的を完成し、意識へと高め、実現していくための、道具であり手段です」。4、同「個人や民族の生き生きした活動が、自分たちの目的を追求し、それを満足させると同時に、自分たちのまったく知らない高遠な目的の手段ないし道具となって、それを無意識のうちに実現する」。5、P53「個人の利害を実現する行動には、個人が意識も意図もしなかったようなものが、内面のふくらみとしてあらわれてきます」。6、P59「時代の英雄とは、洞察力のある人と考えるべきで、その言動はその時代にあって最上のものです」。7、P63 理性の策略(知性の狡智)二、歴史の弁証法を、内的関連を、よくとらえたて表現している例です。1、P57「行動を起こそうとするとき、何が善であり、正義であるかは、通常の私生活では国家や法律のしきたりのうちにしめされている。しかし歴史的な大事件の場合には事情が違います。ここでは現行の公認された義務や法律や正義と、それに対立する可能な義務や法律や正義とのあいだに、大きな葛藤が生じ、新しい秩序が古い体制を傷つけ、その基礎と現実性を破壊し、しかも新しい秩序自体が良いもの、全体として利益をもたらすもの、必要不可欠なもの、と思えるような内容をもつのです。そして、この新しい可能性がやがて歴史に受け入れられる」。2、P58「カエサルはローマ属州の支配権をうばって、ローマ共和国全土を手中にした。こうして、国家体制を無視した専制支配者となった。独裁者としてローマを支配するというのは現体制の否定をねらいとするような実行行為でしたが、同時にそれは、ローマ史と世界史の必然的な方向をしめすもので、その行動は彼の特殊な利得につながるばかりでなく、時代の趨勢にまったく合致した本能的行動でもあったのです。三、具体的な事例を論理学に帰着させてしまう、論理学のしもべとさせる厄介な癖です。また摂理を神に帰着させちゃう病です。P52「普遍的で絶対的な存在と個別的で主観的な存在との統一は、純理論的な考察の対象となるもので、統一の一般的形式は論理学においてあつかわれます」。P69「冷静な洞察とは、本当の善ないし神の理性は、実現する力をもっているとの洞察です。この善、この理性を最も具体的にしめすのが神です。世界を支配するのは神であり、神の支配する内容、ないし、神の計画の実行が世界史なのです」。引用ばかりで恐縮でしたが、これにて、(b)「自由を実現する手段」を一区切りとします。私はこの部分を読んでみて、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』第四章の、1840年代のマルクスとエンゲルスによる人間社会の発展の見方-唯物史観を確立していく過程ですが、このヘーゲルの『歴史哲学』の成果があったからこそ、それをつくりかえる努力によって、確立できたんだということを、あらためて認識させられました。