哲学学習25 ヘーゲル『哲学史序論』6 壮大な世界観です
哲学学習25 ヘーゲル『哲学史序論』ノート6ヘーゲル『哲学史』序論の学習、今回は、「A 哲学史の概念」の3「哲学史の概念に関する結論」の部分に入ります。岩波文庫の武市健人訳では、P80-109、第39節から65節になります。私などは、ここでヘーゲルは壮大な課題を提起していると思っているんですが。3「哲学史の概念に関する結論」は、4つの部分からなっています。まえがき P80-84 第39-44節、a 多様な哲学の時間的発展 P45‐90 第45-51節、b 発展と具体の哲学史の取り扱いへの適用 P91‐95 第52-55節c 哲学史と哲学の立ちいった比較 P95-109 第56-65節一、最初に、「まえがき」の部分ですが、ここを読んでいると、エンゲルス『空想から科学へ』第2章で述べている次の思想が浮かんできました。「現代の唯物論は歴史を人類の発展過程とみるのであり、この発展過程の運動法則を発見することをその課題とするのである」「現代の唯物論は自然科学の最新の進歩を総括している」「〔歴史でも、自然でも〕どちらの場合でも、現代の唯物論は本質的に弁証法的であって、他の諸科学の上に立つような哲学をもはや必要としないのである。それぞれの個別科学に対して、事物と事物に関する知識との全体的関連の中で自分の占める位置を明らかにせよという要求が提起されるやいなや、全体的関連を取り扱ういっさいの特殊な科学は余計なものになる。そのとき、従来のすべての哲学の中でなお独立に存在しつづけるものは、思考とその法則についての学説-形式論理学と弁証法である。そのほかのものはみな、自然と歴史についての実証科学に解消してしまうのである」。今回、ヘーゲルの3の「まえがき」を読んでいると、この思想が浮かんできました。ヘーゲルは、これほど明確な把握や表現ではないのですが、観念論の立場でもあり、独特の表現の仕方ですが、それでもこれと共通することがらを、この箇所で述べているんですね。ヘーゲルの弁証法的世界観ですが、それは、マルクスとエンゲルスの世界観とかなり接近した関係があり、その思想を準備した関係にあったことを、あらためて感じさせられました。「まえがき」に入ります。P80 第39節「哲学とおなじく、哲学史が発展の体系であることが、この章の中心問題だ」、と。「思想の発展における異なる段階の生起は、各々順次、必然性にしたがって出てくるし、必然性にしたがってのみ特定の規定と形態は現れる」。P91 第40節「この生起の唯一のあり方、即ち諸々の形態の由来、諸規定の思惟的、認識的必然性を叙述することこそ哲学の課題であり、仕事である」。(問題はここからですが、ヘーゲルは純粋理念と、それとは別な、区別されるものとして哲学史の発展を考察しています)「重要なのは純粋理念で、それはまだ自然や精神といった、純粋理念の特殊化された形態ではないから、その叙述は『論理学』の課題である。もう一つの別の生起の仕方、あり方、即ち異なる諸々の段階や諸々の発展契機が、時間の中での生起の相において、特殊な場所に、あれやこれやの民族の中に、特殊な政治的状態の下に、これらがコンガラがって起こってくる模様、要するにこれらの諸段階や諸発展契機が特殊な経験的形式のもとに起こってくる―これは哲学史の我々に見せてくれる舞台である。この見方こそ学問にふさわしい唯一の見方である。それが現実面からみても明らかであり、立証されるものだということが、哲学史の研究から明らかになるだろう」と。二、ヘーゲルは、純粋理念の領域での問題と、具体的に現れてくる哲学などの問題とを区別して考察しています。純粋理念は抽象的で一般的な形式として、要するにこれは弁証法的な運動だと思うんですが、これは思考であり、精神であり、客観的なものごとの理念として、一般的な運動でとしてあるとのことでしょうか。ヘーゲルはその理念が特殊な形態に外化することで、哲学をはじめ自然やその他の諸々の領域になるとしていますが、そこが観念論的逆立ちの問題になっているわけですが。そしてそれぞれの領域においては、特殊な時、特殊な場所、特殊な政治状態のなかに、こんがらがって現れてくる。そのこんがらかりの中に、理念が必然性をもって、唯一の形として貫かれていること、このことを立証するのが哲学史の研究の課題である、と。ヘーゲルは、理念すなわち思考の法則を、弁証法を、原理的な一般法則と考えていますが、そのほかの自然や哲学、政治や諸々の(すべての)分野についても、それぞれ固有な特殊な領域においてあらわれてくるとみていて、それらには共通する法則性がはたらいており、それが特殊な時と場所において、唯一の必然性をもってそこでの経験の中に、それぞれの領域に固有の形で現れてくると見ています。その様を解明することを課題として提起しています。先に紹介したエンゲルスの考え方を考えてみると、唯物論と観念論という立場の違いはあっても、ものごとの全一的な発展観を明らかにしようとしている、世界の中にその姿をとらえようと課題提起している点において、二つは相ともに接近しているように思いませんか。ヘーゲルは1831年に死去していますが、その遺産をどの様に生かすか、その観念論の逆立ちをただして、その理論を発展させることが課題となっていたんですね。誤りを正してより正確なものにすることが求められていたわけです。エンゲルスの『空想から科学へ』(もとになる『反デューリング論』は1876‐8年執筆)に示された見解は、それに正面から答えて、批判的に発展させた理論として、とくに唯物史観などは、そうした努力が結実したものです。この仮説を、基本思想を生かすかどうかは、その後の私たちの努力にかかっているわけですが。そうした関係にあると思います。三、レーニンが『哲学ノート』においてヘーゲルの『哲学史序論』からピックアップした箇所が6か所ありますが、すでに2か所については紹介しましたが、ここには3番目の注目が出てきます。P91 第41節「歴史における諸々の哲学体系の継起の順序が、諸々の概念規定の論理的展開における理念の継起の順序と同一であること」「哲学史の中に現れる諸々の体系の根本概念から、それらの外面的な形態とか、それらの特殊的なものへの適用とか、そういったものがすべて取り除かれると、理念そのものの規定のそれぞれ異なる段階が論理的概念の形でみいだされる。また逆に、論理的進展をそれだけとれば、そこにその根本契機から見た歴史的現象の進展がみられる。もっとも、これらの純粋概念が、もちろん歴史的形態の中で認識されることをしらなければならない。」これはマルクスの価値形態論にも使われていますね。より根本的に経済学批判の方法論としても考慮されている問題かとおもいます。これにレーニンが注目するのも当然のことかと思います。四、「まえがき」の最後にヘーゲルは自らの確信とおもわれることを述べています。P83 第43節『人間的なものの中には偶然は支配しない』どの様な意味でこのような言葉を述べたのか、テレンティウスの言葉ではありませんが、ヘーゲルがものごとの一般にたいして、また理性を扱った哲学という学問に対して、その信頼と確信を述べたものかともとれます。しかし、ここだけでその中身に確たることがらをつかもうとするには、私などには無理があります。ここでは、ヘーゲルが若者たちへ送ったメッセージとして記憶しておくことにします。今回は、ここまでです。3の「まえがき」だけでした。次回は、a「多様な哲学の時間的発展」からです。