”楽園” を追われた人類の歴史と現在
『旧約聖書』の『創世記』には、最初の人間(man)アダムと女(woman)が住んでいたと言う ”エデンの園” と呼ばれる ”楽園” が出てくる。彼らは そこで、神と共に 素っ裸で その日暮しを楽しんでいた。中国人は、古代文明の始まった初期から、太古に人類の理想社会があり、時代が下るほど世の中が悪くなってゆく と言う思想を持っていたが、古代メソポタミア人にも同様の思想があり、太古に人類の ”黄金時代” があって、そこから次第に時代が劣化してきた と考えていた。その思想は 古代ギリシアにも伝わって、ヘシオドスが『仕事と日』で その思想をあらわす神話的伝承を書いている。ユダヤ人の書いた『創世記』の ”楽園神話” も おそらく その流れを くんだものだろう と思う。<参考>吟遊詩人ヘシオドスから提起された「鉄の種族の時代」に取り憑かれた数日。そこで太陽と現生人類の関係をさらに思う ― In Deephttps://indeep.jp/we-are-the-iron-race/ところで『創世記』は「なぜ 人類が こんなに ”不幸” で ”悲惨” な境遇になったのか」と言う理由を 端的に述べている。以下は 『新共同訳聖書』の『創世記』第3章の全文である。03:01 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 03:02 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 03:03 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 03:04 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 03:05 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 03:06 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 03:07 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 03:08 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、 03:09 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」 03:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 03:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」 03:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」 03:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」03:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。 03:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」 03:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する。」03:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 03:18 お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる野の草を食べようとするお前に。 03:19 お前は顔に汗を流してパンを得る土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」03:20 アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。 03:21 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。 03:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」 03:23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。 03:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。上の文章の ”善悪” と言うところは、英語訳聖書では一般に ”good and evil” となっているようだ。”good” は一般的には ”良い” であるが、”evil” は 道徳的な悪 を意味するから、対になっているときには ”good” は ”善” と解釈するのが自然だろう。ところで、原典であるヘブライ語では、この ”good and evil” のところは ”ט֥וֹב וָרָֽע ” となっている。ちなみにヘブライ語は 右から左に書くのだが、グーグル先生によると、”ט֥וֹב” は日本語で ”良い” を意味し、”רָֽע” は ”evil” よりも ”bad” の意味で使う方が一般的なようである。 とすると ”ט֥וֹב וָרָֽע ” は、道徳とは必ずしも関係のない ”good and bad” すなわち ”良いと悪い” つまり ”良し悪し” と訳せることになるだろう。では、第3章の中で善悪となっているところを ”良し悪し” と書き換えるとどうなるだろうか。03:04 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 03:05 それを食べると、目が開け、神のように 良し悪しを知るものとなることを神はご存じなのだ。」03:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、良し悪しを知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」”良し悪し”とは、人間にとっての ものごとの相対的な価値の高低を判断する言葉であるが、老荘思想の立場から言えば、まさに この ”良し悪しを知る” ことこそが、人間が ”不幸” ということを知った原因なのである。ところで 聖書の創世記では、”楽園追放” は 人が 神の禁じた ”善悪を知る木の実” を食べた罰だとし、わるいヘビや おろかな女が そそのかしたせいだ としている。このアダムと女の 神への裏切りを ”原罪” と呼び、アダムのせいで 子孫である人類すべてが 原罪を負っているのだ と説くキリスト教の教派が 欧米には多いようだ。また わるいヘビは サタンの化身だとされている。しかし アダムや女が、食べる前には善悪を知らなかった と言うなら、何をしても罪にはならなかったはずではないか。だから たぶん 人間が負うことになった ”不幸” の原因について 神の責任を問うのが恐れ多いから 人間やサタンが悪かった と言うことにしたのではなかろうか。ちなみに 子どものころ、民話や昔話が好きで よく読んだのだが、「そんなわけで、ウグイスは今でも『ホーホケキョ』と鳴くんだそうな」とか「だからサルのお尻は、今でも赤いんだと」みたいな かなり疑わしい因果関係の説明が 最後に さらっと よく出てきたので、ぼくは、昔の人の話を あまり文字通り信用するのは危険だ と思っているのである。なので 本当は「罪と罰」とは関係なく、もともと人間には ”良し悪しを知る” ための潜在能力が備わっていて、そのせいで ”楽園” に いられなくなったのではないか とぼくは思うのである。ヒトは、700万年ほど前にアフリカで生まれ、チンパンジーなどの類人猿と共通の祖先から枝分して進化してきた とされている。最初の人類は ”猿人”、脳の体積が400mlで チンパンジーと変わらず、直立二足歩行ができたが、木登りも得意だったことがわかっている。おそらく、古代文明人たちの言う 人類の ”黄金時代” というのは この頃のことだろう。次に やってきたのが ”原人”、200万年ほど前に あらわれた。脳の大きさは1000mlほどになり、石器を作り、火を使えるようになったので、ヨーロッパやアジアの寒冷地にも住めるようになったが、絶滅した。これが 楽園から追放された人類、ヘシオドスの言う ”銀の種族” の時代だろう。続いて でてきたのが ”ネアンデルタール人”、40万年から4万年前にヨーロッパで生活していた。脳の大きさは現生人類より大きく約1500ml。衣服を着て、動物の骨や歯で作ったアクセサリーを身に着け、洞窟に絵を描いていた。現生人類にも彼らの遺伝子が残っている。彼らは 寒さのために絶滅したと言うのだが、それまで生きていた人類は みんな 現生人類が滅ぼした と言うことも 十分ありそうな気が しないでもない。そして これが ”銅の時代” かも知れない。現生人類(ホモ・サピエンス)は、アフリカで30万年ほど前に出現し、世界に進出した。”鉄の時代” とは 彼らの時代であろう。現生人類が それまでの人類と違うのは、言葉を操れるようになったことである。言葉を知らなくても ”良し悪し” の判断はできるかもしれないが、五感でとらえた情報を言語化し、価値判断の対象を精密に観察し、その価値を論理的に考証し、計量し、数値化し、比較対照することで、その判断は、人間の行動を決定する上で 飛躍的に重要な要因になっていく。狩猟採集時代においては、人類は まだ、文字通り 食べていくのが精いっぱいであった。したがって、たとえ ”良し悪し” がわかったとしても 選んでいる余裕などなかった。ほぼ常に空腹だったから、食べ物は、神 すなわち自然からの恵みであり、無償の愛であり、すべてを感謝して頂くのみであった。やがて 現生人類は「農耕」を発明した。ここまで来るのに 二十数万年の時がかかった。人間は 自然に手を加えることで、自然の恵みを最大化できることを知ったのだ。自然は もはや神ではなくなりつつあった。生の自然は、人間の ロゴス的認知の発達に伴い、無秩序な混沌、矛盾に満ちた残酷な不条理として人間の目に映るようになって行った。人間は 自然から ”悪い” 結果をもたらす要因を慎重に排除し、”最良の” 果実を実らせ 収穫を最大化しようとするようになっていく。そのために 人間は、田畑において 自然の管理者にならなければならなくなった。農耕は また、人間に はじめて ”富” と言う ”良いもの” をもたらした。保存可能な穀物である。しかし ”良いもの” は 必ず ”悪いもの” を生みだす。農民が せっせと たくわえた富を狙って ”盗賊” と ”王侯” が出現した。この両者は 表裏一体であり、彼らは、自分たちのシマでは王侯であり、よそのシマでは盗賊なのだった。結局 農民たちは、彼らの食べる分も生産しなくてはならなくなったので、生活は むしろ 狩猟採取時代より苦しくなったかもしれない。そして 農耕の中心地で まもなく古代文明が始まった。文明とは都市化である。都市とは、人間の自然に対する嫌悪と反感の結晶である。そこには 生きた自然は1ミリも存在しない。そこでは、人間が考える ”良いもの” だけが 存在を許され、”悪いもの” は 排除される。完全な ”秩序” と ”美”、”合理性”、”安全性”、”利便性” そして ”富” と ”豊かさ” が そこでは ”良し” とされる。彼らの考える ”悪いもの” とは、彼らの考える ”良いもの” と比べて、彼らの目から見ると 相対的に価値が劣るものである。そこでは かつての ”良いもの” は、たちまち ”悪いもの” に変化し、捨て去られる。彼らはそれを ”進歩” と呼ぶ。都市の中にも 自然の 残り香らしきものは 見つかるかもしれない。しかし それは、切り取られ 秩序づけられ 無害化され 管理された 死んだ自然のオブジェなのだった。都市は 人間の作った 徹底的な反自然の砦なのである。しかし、あらゆる ”良いもの” だけを集め、”悪いもの” を排除し、絶えず ”進歩” してゆくはずの都市は、そこに住む人々にとって 決して ”新しい楽園” にはならなかった。”良いもの” を追い求め ”悪いもの” を排斥すると言う営みは、たえざる対立と闘争、多大な労苦と過酷な心労を伴う 休みなき営みである。”進歩” に取り残された人間達もまた ”無用のもの” として切り捨てられ、排除されてゆく。三十万年近い現生人類の歴史のなかで 初めて経験する そのストレスの大きさに 人々は呻吟した。そのころ、三か所の古代文明の中心地に、ほぼ時を同じくして 不思議な教師たちが現れたのは決して偶然ではなかっただろう。中国の老子と荘子、インドのゴータマ・ブッダ、中東のイエス・キリストである。もっとも ぼくが知らないだけで、ほかにも 名もない教師たちが、多分 無数に いただろう。彼らは、人類の新しい悩みを解決するために現れたのだ。彼らの説いたことを理解することは難しい。言葉で理解するのが難しいことを説いたからだ。また 彼らの弟子たちが、後世 彼らを神格化して作り上げた ”宗教” は、お互いに相容れない まったく違ったもののように見える。それは おそらく 弟子たちが、彼らの ”さとり” を体験しておらず、教師たちの教えを 自分たちの伝統と文化と風土の文脈で ロゴス的に理解しようとしたためだろう。しかし 老荘思想の立場から見れば、彼らの ”さとり体験” は 同じものだったように見える。彼らの生の主張を あえて言葉にしてみると、彼らは 異口同音に「”楽園” に帰れ」と言ったのではないか とぼくには思えるのだ。そして 彼らの見た ”楽園” は、山のあなたでも 海のかなたでもなく、我々が立っている 今ここに ある。我々の意識を変容しさえすれば 今すぐにでも、我々は 神とともに ”楽園” に立っている自分自身を見出すことができるだろう。だが それも また 非常に難しいことではあった。我々は ”猿人” ではないし、”さとり体験” は、多分に偶発的に起こる 非常にまれな事象だっただろう。けれども これまで 多くの人々が、”楽園” に 一歩でも近づこうと努力し、そこに慰めを見出してきたのである。しかし 最強のエリートである王侯たちは、民衆の ”泣き言” には無関心だったろう。彼らは ますます ”富” を独占し、”権力” を強化していった。自分たちが ”良いもの” を独占し ”悪いもの” を民衆に 甘んじて受け入れさせるため、彼らは ”宗教” を味方につけた。宗教は 権力に取り込まれ、民衆支配の道具になって、教祖の ”さとり” とは、ますます かけ離れたものになっていった。とはいえ はたして、無学で まずしい ゐなかの農民たちが、本当に 都市に住む王侯たちより ”不幸” だった と言えるだろうか。ぼくには そうは思えない。彼らの方が 神に近い場所に いたはずだから。それは さておき、人類の ロゴス的な探究は、ヨーロッパにおいて、ついに 科学と科学技術を生みだし、人類史は 新たなエポックに突入することになった。ヨーロッパ人たちは、急速に ロゴス的な覚醒を遂げ、それまで教会が教えて来た世界に関する知識が、あてにならない でたらめだ と気づき始めた。そして、自分たちに ”悪いもの” を押し付け、”良いものを” 独占してきた、封建エリートたちの支配に もはや耐えられないと感じるようになった。やがて ”市民革命” の火の手が、野火のように欧州を覆いつくし、古い封建権力を倒していった。いまや民衆は 新しい権力者になったのだ。その結果 何が起こったのか。最初のころこそ民衆は彼らの勝利に凱歌を上げ、”自由” を手にした喜びに酔っていた。しかし やがて ”良いもの” を求め ”悪いもの” を排除しようとする これまでの狂騒が、科学と科学技術によって指数関数的に加速されて 百倍も激しい ”進歩” の潮流となり、すべての民衆がその怒涛の渦に 飲み込まれて行ったのである。それまで 文明の担い手である 都市の住民は、せいぜい民衆の1割ほどに過ぎなかった。ところが 今では、多くの国で すべての国民が ”文明人” となり、都市に住もうと押し寄せるようになった。今や都市は、人が人に対して狼であるような 過酷な闘争の ちまたとなってゆき、住民たちは 狡知と奸智を競い合い、もはや 損得勘定なしには何もできなくなってしまった。絶え間ない損得勘定と いまだかつてない 激しい心労とに さいなまれ、彼らは 心の病を患うまでになっていった。また一方で、富と権力の独占者たちが 完全に いなくなったわけではなかった。彼らは カーテンの陰で 人知れず力を蓄えつつあった。彼らは どんな野望を持ったのだろうか。以下は、ヒトラーが ナチスのエリートたちだけに打ち明けた 彼の本音の一部である。ヘブライの館2 ヒトラーの「超人思想」の謎 より一部抜粋https://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hss/b1fha100.html「天地創造は終わっていない。少なくとも、人間という生物に関する限り終わっていない。人間は生物学的に見るならば、明らかに岐路に立っている」「新しい種類の人類が、いまその輪郭を示し始めている。完全に自然科学的な意味における突然変異によってである。これまでの“古い人類”は、これによって、必然的に生物学的に衰退の段階に入っている。古い人間は、衰退形態においてのみ、その生を生きながらえるのである。創造力は、全て新しい種類の人間に集中することになろう。この2種類の人間は、急速に、相互に逆の方向へ発展している。一方は、人間の限界の下へ没落していき、他方は、今日の人間のはるか上まで上昇する。……そう、人間が“神”となる。これこそ、ごく明快な意味なのだ。人間とは生成途上の“神”なのである!」「人間は、自己の限界を乗り越えるべく、永遠に努力しなければならない。立ち止まり閉じこもれば衰退して、人間の限界下に落ちてしまう。半獣となる。神々と獣たち。世界の前途は今日、そのようなものとして我々の行く手にあるのだ。こう考えれば、全てはなんと根源的で単純になることか。……組織もまた、同じだ。運動が閉鎖的である組織、立ち止まっている組織、古いものに固執する組織は衰退し、没落を運命づけられている。しかし、人間の根源的な声に耳を傾ける組織、永遠の運動に帰依した組織、それは新たな人類を生み出す使命を受けているのだ」「人間の太陽期は終焉に向かいつつある。新しい種類の最初の偉大な人間像の中に、今日でもすでに来たるべきものが告知されている。古代北方民族の不滅の知恵によれば、古きものが神々とともに没落することによって、世界は繰り返し若返っている。また、太陽の回帰点が、彼らにとって永遠の進歩という直線でなく、螺旋(らせん)状の生のリズムの象徴と見なされているように、今や、人間は、見かけは後戻りしているが、これはさらに一段高く登るためなのである」「(世界の終末が進むと)人間はイエス・キリストやヤハウェに頼るようになる。しかし、そんなものは来ない。ユダヤやキリスト教の幻想だ。私ははっきり言うが、そんな『救世主』は本当に来ないのだ!その代わりに人類は、苦しまぎれの突然変異で、救いの超人や神人を生み出す。彼らや彼女たちは、知能が数次元高いだけではない。外見は人間とあまり変わらないが、人間にとっては危険な、どんな毒や殺人光線を浴びても生きていられる。神経も内臓も、人間と違う次元に進化してしまうのだからね」「私は都合上、ナショナリズムの気運を盛り上げねばならなかった。しかし『国家』の概念は一時的な価値に過ぎないことを既に知っていたのだ。ここドイツにおいてさえ、ナショナリズムとして知られているものが存在しなくなる日がやがて来る。それに代わって世界に君臨するのは、大師、大君主からなる普遍的な社会である」ヒトラーの死後、側近の一人は次のようなことを語っている。「ヒトラーの目的は“支配者の種族”の確立でもなければ、世界の征服でもなかった。これはヒトラーが夢見た大事業のための単なる『手段』にすぎなかった。……ヒトラーの真の目的、それは“創造”を行うことである。神の事業を、つまり『生物学的変異』を実現することにあったのである。この結果、人類は天上に昇ることになろう。いまだかつて前例を見ない半神半人の“英雄現出”こそ、彼の究極の目的だったのである」ヒトラーは恐れおののくラウシュニングに言った。「これでナチ運動の深さが理解できたかね。これよりも偉大で、包括的な運動がほかにありうるだろうか。ナチズムを政治運動としか理解せぬ者は、実は何も知らぬに等しいのである。ナチズムは宗教以上のものである。それは新しい人類創造の意志なのである」さて、ヒトラーの時代から1世紀も経っていないが、”近代” と言う時代は、あらゆる面で ますます行きづまりを見せている。現代のエリートたちは、ますます 地球上の ”富” と ”権力” を独占し、現状に対する 彼らにとっての解決策と 次の目標を模索している。下の動画を見ると 彼らの考えを垣間見ることができるだろう。人類の終焉 – 世界の先導者たちの計画https://stopworldcontrol.com/ja/%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E6%BB%85%E4%BA%A1/