学びて時に これを習う また よろこばしからずや
これは『論語』の冒頭の辞である。”習う” とは、復習したり練習したりすることらしい。しかし 残念ながら、子供のころ 学校に通っているとき、ぼくは このように感じたことはなかった。そこに ぼくは ずっと問題意識を感じていて、5年ぐらい前から 高校の勉強を やり直してきた。数学から始め、英語、古文、漢文とやって来て、今は物理をやっている。そして 自分なりに体得した(少なくとも ぼくに とっての)大原則は「勉強というものは 自分のペースで やらない限り楽しくならない」ということだった。もっと言えば「ゆっくり学べば学ぶほど楽しくなる」のであり、「自分のペースで学べば たいていの科目は楽しめる」のである。しかし、大部分の子供にとって この原則に沿った勉強は、学校と言う 現行の教育システムに依存している限り ほとんど実行不可能だろう。ひとりひとり 自分のペースは違うのだから、大勢を一度に教える ベルトコンベヤー式の進め方では どうしても落ちこぼれる人が出てくるし、なかには遅すぎると感じる人もいるだろう。そもそも 学校の存在意義は、生徒に楽しく勉強してもらうことにあるのではない。効率的に知識を習得できる人材を効率的に育成し、単位時間当たりの学習効率の成績が優秀な者を 選別することにあるのだ。その結果 多かれ少なかれ 子供たちは、競争心と 勉強に対する嫌悪感と 成績上位者に対する劣等感を植え付けられることになる。たとえ成績優秀な子供でも、ちょっと勉強を怠ければ、すぐに誰かに先を越されてしまう。それに 上には上が いるのだから 劣等感を持つことからは免れられない。そして 劣等感とバランスを取るため 自分より成績が下の人間に対して優越感を持つようになる。こうして 学習効率という尺度で自分と他者の価値を量り、優越感と劣等感と言う牢獄に囚われた人間が生産される。そうした人材は、大企業や軍隊のような たがいに競争的な ピラミッド型の 上意下達型 組織や、大量消費を支える 大規模大量生産システムに、歯車として仕えさせるのに好適であったろう。そして そのようなシステムに仕える人材を 再生産することが 社会のエリートたちの要請だったから、学校も それに応えるべく 設計されているのだ。しかし、そもそも ロボットやAIの発達で、旧来の社会を支えてきた ほとんどの労働者が 将来 ますます必要とされなくなっていくだろう。人間同士の相対的な 学習効率や生産効率の高さなどは、あらゆる分野で ロボットやAIに かなわなくなってゆく。そんな時代の 社会・組織・生産システムの在り方と 学び方とは、どのようなものに なるべきなのだろうか。それは ともかく、孔子の言う ”学” とは、単なる知識の習得だったのだろうか。また 老子は「学を捨てよ」と言ったが、彼らは 正反対のことを言ったのだろうか。西洋の学問は、ロゴス(ことば・論理)に対する信仰に基づいている。 古代ギリシアの哲学者たちがロゴスを発見したのだが、『新約聖書』の『ヨハネによる福音書』の冒頭には「はじめに ことば(ロゴス)ありき」と書いてある。神は言葉であり、言葉によって世界を創造したのだ と聖書は言う。しかし 神の言葉と人間の言葉とは 違っていた。西洋人は、神のロゴスを 人間の言葉と論理に翻訳しようとした。彼らは、あらゆる経験と現象を 言葉と論理に還元しようとする。言葉を言葉で説明し、言葉による論理的追求を重ねる。そのような探求で得られるのは 真理の一面に過ぎないが、一面の真理を無限に積み重ねることによって いつか この世の究極の真理に到達できる と考える。それが 彼らの知識である。その探求は 宇宙の森羅万象に及んで 果てしなく広がり 無限に膨れ上がっていく。それが現代の学問 すなわち ”科学” を生み出した。だが その探求の果てに 彼らは この世界の どこにも 神を見出すことは できなかった。彼らは神を見失った。それに対して『論語』や『老子』と言った書物は、言葉を極限まで切り詰め 削り取っている。言葉は 単に 象徴であり 標識であり 記号であるにすぎない。 字面を読んだだけでは 何が言いたいのか 判然としないことが多い。むかしの子供たちは『論語』のテキストを 意味も分からぬままに音読させられた。孔子にとっての学問の目的とは、生涯をかけて己の人格を完成させることだった。それが ひいては社会全体をよくすることにつながる と彼は信じていた。だから『論語』は、単なる知識の習得によって 読者が わかったつもりになることを意図していない。テキストの言葉の意味は、自分自身の人生における 体験や実践を通じて体得していかねば ならないのだ。だから ”学びて時に これを習う” ことは、その理解の深まりを確認する 悦ばしい ひと時になるのだろう。『論語』の意図は『老子』にも共有されている。しかし 老子ほど反ロゴス的な思想家は いないから、彼の目から見た孔子の学問は「まだまだだな」と見えたのかもしれない。いずれにせよ『論語』と『老子』は、我々東アジア人の共通の古典となり、その文化や精神の形成に大きな影響を与えてきた。言葉や論理によらず 体験から直感的に真理を学ぼうとする姿勢は、すべての芸事や 日常の仕事を 人格の完成に至る ”道” である と見た 日本人の考え方にも表れているのでは なかろうか。