『ソクラテスの弁明』その5
ソクラテスは法廷で「無知を暴かれた人々は腹を立てた」と証言した。しかし、もし彼らが、無知を暴かれたことに腹を立てたのなら、まだ救いようがある。なぜなら、腹を立てた人々は、自分の無知を自覚したはずだからだ。しかし、こういう場合に起こりがちな反応というのは、まず、相手を無視して逃げることだろう。「ソクラテスさん、申し訳ないんだが、急用を思い出してね。ゆっくりお話を聞いている時間がないんですよ。また出直してくれませんか。」とかなんとか・・・・そして、事実を捻じ曲げて解釈すること。「あのソクラテスという男は、おかしな神々を信じていて、若者たちに妙な教えを布教して堕落させているのだ。頭がいかれた けしからん奴だ。気をつけろ!」彼らは他にも、あることないことをでっち上げ、それを人々に吹聴してソクラテスの評判を落とそうとしたに違いない。これは人が、自分に不利益をもたらしそうな ”不都合な真実” に出くわしそうになった時、しばしば無意識的に起こる反応である。すなわち脳内の認知ブロック機構 ”バカの壁” の構築である。(”バカの壁” については、詳しくは僕の4/9の過去記事『バカの壁』を参照されたい。ただし僕の言っている ”バカの壁” は養老孟司氏の言っているのとは多少違っているかもしれない。)とにかくこうして、しだいにソクラテスに対する悪い評判が、アテナイの街に住む人々の間に広まっていったのだろう。それを見て彼を憎む人たちは、彼を民衆裁判所に訴える機が熟したと考えた。彼らの意識下にある真の目的は、”不都合な真実” である彼の存在そのものを抹消することである。しかし実際には、ソクラテスを駆り立てていたものは、彼らが思っているようなものではなかった。それはフィロソフィア(愛知)だったのだ。ソクラテスにとっての ”知” とは、世界へのロゴス(言葉・理性)による洞察と探求によって与えられる真実であった。彼はそれを心から愛していた。彼にとってそれは、神から人間に与えられる神聖な賜物だったのだろう。そして彼は ”バカの壁” にも気づいていた。それが、人々が自分でめぐらした、彼ら自身を閉じ込める牢獄の壁であることにも。牢獄の住人たちにとっての ”知” とは、彼らのちっぽけなプライドを守るための道具、あるいは金儲けの手段に過ぎなかったのだ。そしてそれから彼らが得ていた ”喜び” は、牢獄の薄暗い壁の中でしか浸ることのできない「勘違いに基づく優越感」に過ぎなかった。そんな彼らに対してソクラテスが教えたかったのは、牢獄の壁の外側に広がる広大無辺のフィロソフィアの世界であり、そこから得られる喜びにもまた限りがない、ということだったのだ。そしてその世界を知るためには、人はだれでも、自分自身が作った ”バカの壁” に気づき、自分自身の手でそれを壊していく必要があるのである。それは痛みを伴う作業である。しかし、それをせずにいくら学んだつもりになったとしても、それは ”バカの壁” をますます厚くし、高くすることになるだけなのだ。そういう人たちは勉強すればするほど ”バカ” になっていく。フィロソフィアから得られる喜びなくして、人は本当に何かを学び、成長することはできないのだ。だからこそ彼は、たとえ人びとから嫌われようとも、そのことを人々に伝えることが神意であると信じたのだ。しかし、当時のアテナイの人々には、まだそれを理解するための機が熟していなかった。ソクラテスを告発した人々も、おそらく本気で彼を殺そうとまでは思っていなかっただろう。彼が泣き叫び、もう二度と問答などふっかけないから許してくれとか、いくらでも賠償金を支払うから死刑の代わりに追放刑にしてくれとかと跪いて哀願したなら、余裕と寛大さを示して許してやろう、ぐらいに思っていたのだろう。しかしソクラテスは、そんなことをすれば、自分がやってきたことが悪いことだったと認めることになり、神から与えられた自分の使命も、神の神意も無にしてしまう、私はみんなのために良いことをしたのだから、むしろ感謝されるべきなのだ、と言って減刑嘆願することを拒否した。最終評決では、500人の陪審員の約7割が彼を有罪と断定し、彼の死刑が確定した。ソクラテスは、死を待つ牢獄の中で、彼のもっとも親しい友人や支持者たちと最後の対話をした。その内容は、プラトンの著作『クリトン』と『パイドン』に書かれている。そして時が来た。ソクラテスは、彼らに見守られながら毒杯を仰ぎ、従容として死に就いた。ソクラテスを閉じ込めた牢獄の四方の壁は、当時のアテナイ市民たちが築いた、彼に対する ”バカの壁” の象徴だ。しかし彼はその中で、最後まで決して精神の自由を失うことはなかったのである。さて、読者には、彼の問いかけを受け入れる準備ができているだろうか?(了)『ソクラテスの死』ジャック=ルイ・ダヴィッド 1789年ソクラテスの弁明・クリトン(プラトン) (岩波文庫 青601-1) [ プラトン ]価格:572円(税込、送料無料) (2021/4/21時点)楽天で購入