『世界の歴史5 ギリシアとローマ』その47
<ラミア戦争(前323年)>アレクサンドロスの死後、デモステネスは、再度反マケドニア運動を展開、アテナイとその同盟国はマケドニアの支配を脱するべく、直ちに反乱を起こした。同盟軍はマケドニアの留守を守っていたアンティパトロスの軍を破り、マケドニア軍をラミアに包囲した。しかし海上で同盟海軍はマケドニア海軍に敗れ、制海権を奪われた。アジアからの援軍を得てマケドニアは巻き返し、前322年クランノンの戦いでギリシアは破れ、独立のための戦争は鎮圧された。デモステネスは、マケドニアからの追跡が迫る中、服毒自殺を遂げた。<アテナイ民主制の終焉>降伏したアテナイに対し、アンティパトロスは厳しい措置を執った。アテナイの外港ペイライエウスにマケドニア軍が駐留する体制のもと、アテナイは市民の参政権を、2000ドラクマ以上の資産を持つ9000名に制限する寡頭制に移行させられた。これにより1万2千名が参政権を失い、約180年続いたアテナイ民主制は終焉した。アテナイにしろスパルタにしろ、社会の実権は富裕層に握られ、もはや昔日のポリスの面影はどこにも見いだせなくなった。<ヘレニズム時代>アレクサンドロスの死後、重臣たちは後継者を誰にするかで会議を開いた。とりあえず、アレクサンドロスの異母兄で、知的障害者だったアリダイオスをマケドニア王フィリッポス三世として即位させたが、残りの帝国は重臣たちが分割した。フィリッポス三世は、父フィリッポス二世が踊り子にに産ませた子で、後にアレクサンドロスの母オリュンピアスに殺された。一説によると彼が知的障害を負ったのも、オリュンピアスに毒を盛られたからだと言う。アレクサンドロスには、ダレイオス三世の娘スタテイラ二世のほかに、バクトリア王女のロクサネという后がいた。ロクサネはアレクサンドロスの死後、王子を産んだ(アレクサンドロス四世)。ロクサネはスタテイラを殺し、マケドニアでアレクサンドロスの母オリュンピアスに保護されたが、オリュンピアスは暗殺され、アレクサンドロス四世とロクサネも後に暗殺された。こうしてマケドニア王家は前309年に断絶し、重臣たちのなかで、後継者争いに勝ったものが、帝国を分割した。領土争いは、領土の大部分がローマ帝国に吸収されるまで続いた。アレクサンドロスの死から、最後に残ったプトレマイオス朝エジプトがローマに滅ぼされるまでの約300年間を ”ヘレニズム時代” という。(古代ギリシア篇 了)前301年頃のヘレニズム諸国。緑がカッサンドロス朝、茶色がリュシマコス朝、紺がプトレマイオス朝、黄土色がセレウコス朝。水色がローマ、赤紫がカルタゴ。