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“しょう”のブログ

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悲鳴をあげる学校

2008.04.26
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カテゴリ:悲鳴をあげる学校
小野田さん(小野田教授)の提起

〔引用の続き〕

 私は、イチヤモンという問題を考えていますが、その裏返しはつねに「連携」です。ごく簡単にいいますと「連携」と「イチヤモン」は、オモテとウラの関係なのです。「イチヤモンこそチャンス」です。このところをもう一度、教職員の側は、肝に銘じていただきたい。

 そして保護者のみなさんは、ときとしてトゲトゲしくなるもの言いを、一度、ちょっとそうではないちがうかたちで、「うん? これイチヤモンになってえへんかな? そうじゃないかな?」と考えながら、それを反省しながら、きちんと学校に出していく。

 そして、「なんだったら、私が、あんたの話、聞いたげるわ」と学校に不満をもって悩んでいる人に呼びかける。いま、この本を読まれているみなさんにはPTAでそういう役割をされた方も多いと思います。「あんたの悩みを聞きましょう」というかたちで、手を差し伸べてください。そういう取り組みが、どうできるかということなのです。

 人間は、ストレートにものを言うときに、「どうしても言わな気がスマン」という部分があります。これはすごく大事なことがらなのですが、もう一方で、自分の怒りや感情や思いが、どれだけ意味があるのかということを考え、一度、だれか近場の他人に話をしてみることも大事です。そうした関係を通したなかで、学校に「どのように思っていることを伝えていくか」が大切です。

 そうしたなかで、「学校、これやってよ」ではなく、「私は、こうしたいと思う」「先生、これしてくれません?」「私は、ここまでやります」という、このお互いの関係をつくれるようなかたちでの要求の出し方をしていくことが、社会が壊れない道すじです そして学校というところを通しながら、社会が結びあっていくことが重要なのではないでしょうか。

〔コメント〕

 「困った親というのは困っている親なんだ」ということを小野田さんは強調されるのですが、「イチャモン」とは異なる「連携」は常に可能だ、という点で一貫しています。そして、「イチャモンから連携へ」というのは「学校への要求をほどほどにしておきなさい」といったことでは決してないのです。

 本来、保護者も教職員も「子どもたちが健全に成長していくこと」を望んでいるわけですそのために必要な要求をきちんと出し、保護者と教職員とがきちんと向き合って「子どもたちへの適切な教育・関わり方」について話し合い意識を共有していくこと、これが好ましい連携をつくっていくことであると考えます。

 
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Last updated  2019.03.23 20:17:56
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2008.04.19
カテゴリ:悲鳴をあげる学校
小野田さん(小野田教授)の提起8

 『片小ナビ』 の扉にはこう書かれています。
 「片小ナビは、(・・・)保護者のみなさんのための学校ガイドブックです。保護者のみなさんと片小は、お子さんの教育に責任をもつパートナー同士です。

 お子さんの教育について、いっしょに考えて協力していくために必要な信頼関係を築いていくためにも、まずはパートナーである保護者のみなさんに、片小の『等身大の姿』をきちんと理解してもらおうと『片小ナビ』 はつくられました

 (・・・)自分の子どもがかよう学校がどういうしくみなのか、何ができて何ができないのか、学校への理解と意識を高めてもらうことに主眼をおきました。 こうすることによってやがては学校の境界領域、そして家庭が果たす責任領域が自然とつちかわれていくようになると思うのです。

 お互いに、今の学校はどうなっているのかについてわかり合うこと、つまり共通理解が「はじめの一歩」です。学校からはたしかに多くの情報が出されていますが、それは保護者や地域の方々にとっては、共感という意味での蓄積されたものにはなっていないように思います。

 保護者や地域の方々は、一方的な情報の「受け手」ではないのです。なんらかのかたちで学校に協力したいと思っている方はたくさんいます。「わが子のかよう学校」ですが、どうすればいいのかわからない。それにはやはり「等身大の学校の姿」をみんなで確認することだと思います。

 (・・・)学校の側からだけではなく、家庭・地域などの側も含めた双方向的な「学校理解」によって、それぞれの役割の確認と、相手が要望と期待に応えるという関係性が生まれ始めると思うのです。

8 「イチヤモン」の裏返しは「連携」

 山本シュウさんというラジオのDJをやっておられる方が『レモンさんのPTA爆談』(小学館、2005年)という本を出されました。(・・・)私の主張と重なるところが多くあります。若干、長くなりますが、彼のメッセージを紹介します。

 「いつの間にか(・・・)全部学校に任せるちゅう教育が始まってしもうたんや。人間形成から何から。ほいで、昔は家で教えなあかんことやったしつけとかも、『学校の先生、教えてよ、ちゃんと!』って言って、親が突っ込み出した。

 その流れが現在まで続いて、現在、先生はすごい雑務に追われているワケや。ぶっちゃけ、子どもたちと触れ合う時間を奪われて本末転倒や。 頑張り屋の先生にとっては、いちばんのストレスやと思う。

 ほな、そういう状況に追い込んだのは何や。それは驚くかもしれんけど、僕が感じたのは、ぶっちゃけ、われらPTAのせいや。そう、僕が一所懸命やってるPTAや。そりやどういうこつちゃ。簡単に言うとやな、学校は、こういうことを突っ込まれたとき、ちゃんと説明できて報告できるように、全部記録しておかなアカンつて、その報告書づくりに必死やねん。

 そういう突っ込み、だれが言うの? PTAや。親たちや。『先生、これどうなってますの?』『先生、学校がそんなんでいいんですか?』……。そんなん突っ込まれたらコワイヤん。だから、書いとかなアカンねん。そういう雑務に追われてるんや。  

 その上、文部科学省から教育委員会から何から何まで、いろんなことをさせよる! 現場の先生らはフラフラになる。PTAと学校のせめぎ合い
 
」(中略)。

「教育は、もうみんなの問題ですよー。お父さん、お母さんー。何度も言うてるけど、どんどん学校に参加してください。でも突っ込みに行くんちゃいまっせ。先生をバックアップ、あるいはヘルプしに行くんでっせ! それに当然、家庭教育もしっかりしていきましょう。.そのためにも僕ら大人が、いろんなことを学んでいかなアカンとちゃいますか? まずは、その意識改革から一緒にやりましょ」

〔コメント〕

 情報発信が学校による「説明責任」という形の一方的なものとなってしまえば、山本シュウさんの指摘も現実のものになっていくでしょう。学校と保護者双方向の情報発信である「片小ナビ」のような取り組みは、学校における膨大な負担を軽減するのみならず、学校と保護者の本来あるべき「連携」を実現していく道として、注目すべきものがあると思います。

 
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Last updated  2019.03.24 00:49:04
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2008.04.13
カテゴリ:悲鳴をあげる学校
小野田さん(小野田教授)の提起7

 半径20キロ圏内で勝負!

 学校へのイチヤモン(無理難題要求)の本質的な打開には、まず、もっと学校と教師の実像をわかってもらう必要性を痛感しています。 マスコミを含めて学校への「過大評価」と裏腹に「過小評価」が浸透しているなかでは、「うつむきながらボヤく」のではなく、積極的にパフォーマンスをする必要があります。

 それが、学校が元気と自信を取り戻すきっかけになればと思うのです。それは学校の宣伝のために、学校へ新聞やテレビが取材に来てもらうという意味ではありません。むしろ、それは正しいあり方ではありません。

 公立小学校の信頼と協働をつちかう範囲は半径3キロです。中学校の場合は5キロ、そして高校の場合は20キロ前後です。だとすればその範囲のなかで、いかに参加と共同にもとづく信頼関係を築くことができるかどうかが勝負のわかれ目なのです。(・・・)

 「等身大の学校の姿」をみんなで確認

 1990年代の後半から、政策的には「開かれた学校づくり」あるいは「家庭・学校の連携」ということがさかんに言われてきましたが、じつは残念ながら、わが国では相互の役割の共通理解をどうつくるか、ということの条件整備がほとんどなされていないということを私は心配をしておりました。(・・・)

 お互いがわかったうえで、はじめて手を結びましょうとなるわけです。ところが、そういう関係性がつくられないままで、上からの政策で「開かれた学校」や「連携」という言葉だけが走り始めているのが現状です。このままでは、学校にありとあらゆることが持ち込まれ、まるでゴミ箱のようにあつかわれることになってしまいます。これが私自身の実感です。

 実際に保護者たちと話をしていますと、学校に対するイメージは、じつに多様というよりは、誤解に満ちたものだということが結構あります。

 たとえば、「小学校の先生たちは給食代を払っていない」、あるいは「土日の部活動の指導をしている先生は、一日、一万円の手当を支給されている」と、こう思っておられる保護者の方は半数以上におよんでいます。そんなばかなことはありません。(・・・)。

 そこでいまの学校がどうなっているかということを伝える必要性を痛感しました。それが保護者のための学校案内づくりです。2000年から2003年にかけて、私の研究室では吹田市の片山小学校で、教職員・PTAのみなさんに協力をいただきながら『片小ナビ ー保護者のための片山小学校ガイドブック』をつくりつづけました。

 学校案内づくりは行政や学校側でやってしまうと、どうしてもそれは「学校からの説明責任・アカウンタビリティー」になってしまいます。そうではなく学び合うかたちで、保護者やPTAといっしょにつくつていくことが大事だと思いました。

〔コメント〕

 私は以前「学校の力を高める」というテーマを取り上げましたが、小野田氏が提起しているのは 「学校の力を高める(教育の力を高める)ためには教職員と保護者のいかなる連携が必要か」 ということです。

 「開かれた学校」というのは「結び合う形で一緒につくっていくことが大事だ」も、まさにそのとおりだと思います。

 小野田さんの講演の中に「学校はゴミ箱、教師はサンドバック」という“すごい”表現もありましたが、教職員のエネルギーを高め「学校の力を高める」ためにも、相互理解に基づく「連携」が大切だということは言うまでもないことでしょう。

 わたしは、教職員であり保護者です。今年度は子どもが通う小学校のPTA役員を受けることにしました。「望ましい連携」をつくっていくために微力を尽くせたら、と考えています。

 教職員は、「物理的な余裕、心の余裕」をともすれば失いがちな実態がありますが、自らPTA活動や地域の活動に参加することはたはり大切だと思うのです。


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Last updated  2019.03.24 00:48:22
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2008.04.06
カテゴリ:悲鳴をあげる学校
小野田さん(小野田教授)の提起6

(引用 続き)

 別の角度から考えてみましょう。これほどまでに高度に成熟し、それゆえにさまざまな社会問題を抱えざるをえない社会において、なぜ犯罪発生率が欧米諸国に比べて格段に低いのでしょうか? 2006(平成18)年版の『犯罪自書』 によれば、主要欧米各国と比較しても日本は群を抜いて犯罪発生率は低いのです。

 2004年度において人口10万人あたりの発生率は、近年やや増加傾向がうかがわれるものの、日本は2007、これに対してイギリス10633、ドイツ8037、フランス6316、アメリカ3983となっています。それは国民性なのでしょうか? 警察の効果なのでしょうか?

 私は数値に表れないかたちでの日本の学校教育の成果が相当に大きいと考えています。膨大な生活指導の領域を抱え、二四時間体制で家出事件や非行少年たちのために駆けずり回りながら「一人ひとりの子どものために」活動するわが国の教師たち。

 運動会や文化祭といった特別活動の領域の幅広さによって、勉強だけができる子どものみが評価されるのではなく、じつに多様な活躍の場がそれなりに設定されている学校。
 ある子どもについて、教室での勉強を通して見えてくる姿だけでなく、部活の場面での姿、学校生活全体での姿と多様な面を、一人の教師がトータルに見て取ることのできる環境。

 これらは明らかに、日本的な学校文化です。
 日本の教師たちは法定の一週間に五日間×八時間の労働時間をはるかに超えた超過勤務をし、手当支給も代替休暇もないなかで懸命に、ときには警察的な治安の維持に、児童民生委員を超えたソーシャルワーカー的な機能を果たし、あるときは総合的なカウンセラー的機能を果たしています。

 それは社会と人びとを「いやし、ほぐし、つなぐ」機能として、きわめて重要な一翼を担っています。問題は、世間がなかなかそのことに気づいてくれず、また政治や行政そしてマスコミなどがそれを過小評価していることにあります。

(コメント)

 小野田さんは「教職員が総合職であること」「学校教育が果たしている役割は総合的なものであること」を強調し、犯罪発生率を例にその「成果」と思われるものに目を向けています。
 
 「高校を卒業する子どもたちの比率が全体の90%を超える」という事実も日本の学校が果たしている「総合的な機能」と関連していると思われます。

 私自身は高校の教職員ですが、「受験学力が低く生活指導が困難な学校」にかなりの期間勤務していました。「さまざまな問題行動を繰り返す生徒」に対して「いま学校をやめさせる方向で考えることはできるが、彼(彼女)はこのままでは社会でまともに生きられない」といった論議をしながら、とことん向き合い教育していくことを目指してきました。

 ただ、それがある程度可能だったのは、日本の学校の中に生徒会活動・行事や部活動などの領域があり、一人ひとりをさまざまな物差しで評価することができる、という面があったからです。

 この点でも「日本の学校が果たす総合的な機能」に関する小野田さんの指摘は妥当であるように思います。「授業」はもちろんですがそれ以外の領域にもかなりの力を注いでいることがかなりの「教育効果」を生み出していることについてはそれなりに自負できると考えています。

 その素晴らしい成果を象徴的に劇的に示しているのが 長野県U高校の実践 でしょう。
 このブログでも 「学校の力を高める」 で連載したものです。

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Last updated  2019.03.24 00:47:02
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2008.04.01
カテゴリ:悲鳴をあげる学校
kurazohさん
 メッセージありがとうございます

>公立学校は「手を抜くのが後の人のため」という定石は一般化してしまったのでしょうか。

 おそらく小野田さん(『悲鳴をあげる学校』)の次のような問題提起に反応されたのだと思います。

(再度引用)

 「教育改革病」のために、肝心の子どもたちと接触する時間が大幅に削られ、「やれ会議だ。やれ書類作成だ」の連続のなかで、日々格闘を続けている教職員からすれば、少しでも「当たり前の状態を取り戻す」ために、これまで抱えてきた職務領域を少しでも減らしたい、と思うのは無理からぬことかもしれません。

(コメントに応えて)

 しかしながら、総論においては小野田さんの論点・趣旨は「 (日本の)教職員は“総合職”であり生活指導や特別活動を含む多くの職務領域を引き受けることで教育効果を挙げてきた」というもので“領域”を減らすべきだ、といっているのではありません。

 事実、小野田さんは次のようにも述べておられます。

 「しかしこれ(教職員が“総合職”として広範囲の領域を引き受けていること)こそが、日本の学校教育の特質であり、それによって今日まで学校教育や教師に対する信頼が、曲がりなりにも維持されてきた部分であったことを忘れてはいけません。」

 それでは、「公立学校は“手を抜くのが後の人のため”という定石は一般化してしまったのでしょうか」ということについて「私の経験から」考えてみたいと思います。

 私の場合、勤務した4校のうち「少し緩んだ」雰囲気の職場はひとつだけで、残りの3校は「真剣に実践していく」職員が多数を占めていました。新規採用の学校では、先輩教員(高生研の会員)がさまざまな場面で鍛えてくだったものです。

 熱心な組合員でしたが「組合のわがまま」についても堂々と公的な場面で問題にするような人でした。このような経験にもよるのでしょうが、私は基本的に先輩教員や同僚に対する「信頼感」を持っています。よい面を伸ばしあうという形で「学校づくり」の実践を進めていくことは充分可能だと思うのです。

 もっとも「上手にさぼりなさい」とアドバイスしてくださった人もいます。それは、先輩教員ではなく精神神経科のお医者さんでした。仕事やさまざまなことで「うつ状態」に陥ってしまった時にいただいたアドバイスで「その時の自分」にとっては適切であったように思います。

 「先生、熱いな」と今年度も生徒に言われるなど我ながら結構熱意はあると思うのですが、自分の強さを「過信しない」ことが大切だということも「うつ状態」に陥った時に学びました。
 私も含めて、日本の教員は精神・神経の疾患が多いようにも感じます。「やる時はやる、休む時は休む」ということは大切だ、と思うのです。

 もちろん熱意は大切ですが、「まじめすぎる自分」を振り返りながら、さまざまな仕事や問題に「軽くしたたかな姿勢で」向き合っていくよう心がけたほうがいい教職員も少なくないと思います。


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Last updated  2019.03.24 00:46:06
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2008.03.30
カテゴリ:悲鳴をあげる学校
小野田さん(小野田教授)の提起5

(引用 続き)

 日本的な学校の特質を再評価する「必要性」

 日本の学校の特質は、つまり、膨大な生徒指導や生活指導の領域を抱えているということ、そして特別活動をとおしての多様な側面を学校が持っている、ということです。(…)

 学校での特別活動の意義についてもう少しふれておきたいと思います。
 じつは日本の学校は勉強のできる子もできない子も、スポーツのできる子もできない子も、音楽が得意な子も得意でない子も、そこそこに活躍の場があります。これは世界でもきわめてまれなのです。

 どういうことでしょうか? 運動会があり、文化祭があり、合唱コンクールがあります。いろいろな特別活動、行事があります。

 たとえばフランスの学校にかよっていた学生に聞くと、「運動会みたいなものはあった」とはいいます。しかし、「どうやっていた?」と聞くと「いきなりその日にやった」といいます。いきなりその日です。「スポーツ大会はあった?」と聞くと「あった」「でも両降ったから、流れて、大会そのものがなかった」といいます。

 ところが日本ではありえないことです。運動会一つとってみても、まずなんの種目をやるかという検討から始まります。そして種目が決まった後、だれが出るかを学級会で話し合います。そして日にちをとって、当日まで予行練習などをおこないます。助走期間があって当日をむかえるというかたちです。

 ある学校では、ヤンキーっぽい子たちも、出席率がめっちゃくちゃ高く、もう必死になって走ってます。雨が降った場合に、順延はしますがなくなることはありません。

(…)つまり、それだけ日本の学校はモノサシが一つではないのです。先ほどもいいましたが学力だけではなく、音楽、スポーツなど、それなりに測るさまざまなスケールのモノサシがじつはあるのです。そこをきちんと見ておく必要があります。

 しかし、そうした「生徒指導や部活指導などを学校や教師の役割から外すべきだ」という声をよく耳にします。たしかに生徒たちのしんどさーその背景には親たちのしんどさがあります ー は年々深刻化しています。
 
 「教育改革病」のために、肝心の子どもたちと接触する時間が大幅に削られ、「やれ会議だ。やれ書類作成だ」の連続のなかで、日々格闘を続けている教職員からすれば、少しでも「当たり前の状態を取り戻す」ために、これまで抱えてきた職務領域を少しでも減らしたい、と思うのは無理からぬことかもしれません。

 しかしこれこそが、日本の学校教育の特質であり、それによって今日まで学校教育や教師に対する信頼が、曲がりなりにも維持されてきた部分であったことを忘れてはいけません。

 極論すれば、もしこの部分が学校の役割からなくなり、教師が子どもたちに教科指導だけをおこなう存在だったとすれば、10年前にいともたやすく公立学校は公共サービス部門から切り離され、株式会社などの手に委ねられていた、と私は考えます。

〔コメント〕

 私は、「高校生活指導研究協議会」(高生研)という教育研究団体の大会などで様々な実践に触れ、それを参考にしながら色々取り組んできましたが、特別活動(例えば生徒会行事)に際して、「原案を作って話し合い、実行し総括する」という取り組みが子どもたちの成長に大きく寄与することを実感しています。
 
 それが、小野田さんの指摘のとおり「日本の教育の特質」だとすればそれは、素晴らしいものであるという共通理解(保護者も地域の人々も含めて)をひろげながら、教育の大切な側面として充実させていく必要があると思います。


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Last updated  2019.03.24 00:45:19
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2008.03.27
カテゴリ:悲鳴をあげる学校
小野田さん(小野田教授)の提起 4

(引き続き引用)

4 日本の学校の「特質」とは?
 協業体制を基本とした日本の学校


 私はつねづね、日本の教師は総合職だと思っています。事務職員も含めて総合職だと思っています。だから日本の学校には世界でもきわめてまれな「校務分掌」という組織が必要となるのです。

 ある中学校でもらった学校要覧をみると○○先生と△△先生と事務職員のロロさんが、ある領域の仕事を担当するということが、表としてしめされています。
 なぜ「校務分掌体制」が必要なのでしょうか? それは基本的に協業体制だからです。もし分業ということでしたら、自分の仕事をやれば後は知らんぷりです。

 フランスの学校の場合、先生は先生としての仕事しかほとんどしません。教科を教えるほかに、教室内で生徒が授業妨害をしていれば、それを注意するのは先生です。しかし授業が終わって教室の外に一歩出たら、先生は注意をしません。

 別の生徒指導専門員や管理人という人がやるわけです。また学校の門の外に出たとたんに、中学生がタバコを吸っていたとしても門番は注意をしません。学校のなかで吸っていたら注意をします。

 門の外に出たら警察の領域だからです。ほほそれははっきりしています。ところが日本はそうではないでしょう。こうしたことに対する効果や意味について検討も評価もなにもないままに、いたずらに「教育改革」がどんどん出てきています。

 講演先でこの話をしましたら、「小野田先生の言われるとおりです」と日本人学校で敢えていた指導主事の方が話しかけてきました。(…)あるとき、現地の学校に雇われている掃除を担当する職員が、病気で一カ月ほど休んだそうです。

 同じ敷地内にありますから、なんとなく現地の学校を訪ねていったところ、教室も廊下もゴミの山だったそうです。つまり、ゴミを片づける人がその人で、その人がいなければだれもやらへんということです。ところが日本の学校はちがいます。

 海外の在外教育施設といわれている日本人学校や補習校では、日本の学校と同じく教職員も生徒もみんなで掃除します。

 (…)つまり、日本の学校はきわめて協業が発達した状態にあるのです。そのかぎりでは線引きがはっきりしないということがあるかもしれませんが……。

 しかし、こういう状況に対する価値を、もっと私たちはみなさんに認めてもらう必要があるとつくづく思います。そこが認めてもらえないところに、いまの学校のしんどさがあるような気がします。

〔コメント〕

 このあと、小野田さんは日本の教職員が「総合職」であることの大変さと大きなメリットを強調していくのですが、はじめて同趣旨の文章を読んだとき、「なるほど」と思いました。

 いわゆる「校務分掌」も担いつつ教科指導も部活動を含む特別活動の指導も、というのは本当に大変なのですが、「人格形成」ということも含めて大きな効果を挙げているように思われます。次回以降、もう少し具体的にコメントしたいと思います。


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2008.03.25
カテゴリ:悲鳴をあげる学校
小野田さん(小野田教授)の提起 3

3 日本の学校は本当に「閉鎖的」なのか?

 教育や学校にかんするさまざまな事件が起きるたびに、マスコミなどは「教師たる者は、かくあるべし」とか「だから学校は、硬直的で閉鎖的と言われるんだ」と評することが多くなってきました。たしかにいくつかの側面からは、そのように見えることは事実です。

 しかし学校は、体罰や管理主義教育の問題が表面化してきた一九八〇年前半までとは異なり、かなり柔軟な姿勢になり、また地域に開かれた取り組みを進めてきているところも多くなっています。

 私のところにマスコミ関係者が多くきますが、話をしてみると、今の学校がどのようになっているのか、あるいは教職員が機能しているかについては、じつはよく知らないことに、こちらが驚きます。しかしマスコミ関係者も「世間」の一つであり、同時に非常に強く「世間を形成」する存在ですから、このズレはかなり大きいものといえます。

 日本の学校は、閉鎖的なのでしょうか。学校と家庭との関係では、相当すぎるほどのコミュニケーション・チャンネルをもっているのですが、それが正当に評価されないまま、一方的に固定的なイメージで語られていないでしょうか。

 日本の学校ほど学校から家庭に対していっぱい情報が提供されている国はないのです。紙による情報提供は世界でいちばん多いと思います。(…)授業で使うプリントの類以外に、家庭向けの文書資料が大量にあるのです。

 つまりコミュニケーション・チャンネルというのは、まず紙を用いたかたちで豊富にあるでしょう。授業参観は学期に一回あります。そして、個人懇談、学級懇談もあるわけです。

 膨大なコミュニケーション・チャンネルを持っています。さらにもっと言えば、担任の先生などのところに、夜中に電話がかかってくることもあります。

 「先生すいません。うちの子が家出してしもうた。どないしょ?」と保護者から。すると先生は、それが夜中の一二時であろうが一時であろうが、電話に飛び起きます。

 電話が鳴ったとたんに「うちの田舎のじいちゃん、そろそろ危ないと言ってたけど、危篤の知らせかな?」という思いも持ちながら、真夜中に電話を受けます。

 するとクラスの「生徒の家出」ということで飛び起きて、「それじゃあ、こちらでできるだけのことはやりますから」といって、学校の緊急連絡網を使って生徒指導の先生に連絡します。

 また、校長や教頭にも連絡するなどのことをやります。つまり学校での勤務時間だけでなくて、時と場合によって二四時間体制で受付をするわけです。これが日本の学校の実態です。こういう国はほかにありません。

 ここまでやっていて「学校が開かれてない」という言い方には、私は「それはないんじゃないの」と言っています。もっとも開かれているのが日本の学校なのです。

〔コメント〕

 「一億総教育評論家」という言葉を使う人が前々任校でいました。すべてといっていい人が学校に通った経験を持っているわけですから、「学校について自分はよくわかっている」と思いがちです。

 しかし、例えばPTA活動に熱心な保護者で「教職員(先生)とひざをつき合わせて色々話をして、はじめて生徒の時には見えなかった教育現場の実情がわかった、」と言われる人も多いです。

 「イチャモンから結び合いへ」が重要テーマなのですが、それを実現していくためには、教職員と保護者とがしっかり話をすること、直接の話が難しい場合にも両者が互いの現状に対してしっかりと想像力を働かせることが大切だと感じます。

 それに逆行するような政策を強引に進めていった「安部前政権」のやりかたにはいまだに憤りを感じているのです。


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2008.03.22
カテゴリ:悲鳴をあげる学校
小野田さん(小野田教授)の提起 2

(最終章の引用 続き)

2、トラブル=子どもの成長の課題

 たとえば、子どもがむかついて下に落ちていた石をひろって窓ガラスになげたとします。ガシヤーン、と窓ガラスが割れます。あるいは子どもどうしのちょっとした口げんか腹をたて、ガラスが入ったドアを思いっきり「バーン」と蹴った拍子にガラスが割れたとします。

 どこのだれがやったかはすでにわかりますので、学校側は、当然のことながら保護者を呼び出し、コトの経過を説明します。そしてそのあとにはかならず「すいません、お父さん、全額とはいいませんが、ガラス代半額弁償していただけないでしょうか」ときり出した途端、
 「そこに石ころがあったのが悪い!」
 「蹴ったから割れるようなガラスのほうが問題だ!」と。

 こう開きなおるケースがたまにあります。あきらかにその言葉はイチヤモンとうつるでしょう。こういわれてしまうと教育委員会、学校側は開いた口がふさがらない、という状況になってしまいます。

 だけどもなぜ、お父さんはこういう言い方をするのでしょうか。
 じつは、子どもにとってみれば、ひとつのトラブルです。しかし、同時に石を投げるなり、ドアを蹴るなりのわけがあると思います。

 小学校二年生ぐらいであれば、石を投げたり、蹴ったりすればガラスが割れることはじゅうぶんわかっています。わかっていて、なぜ、やるのでしょうか。大事なことがらは、このなぜ、やるのか、ということです。なんで、ということにポイントがあります。

 たとえば、「家でお父ちゃん、お母ちゃんがいつもケンカばかりしている。僕が学校にいる間にお母ちゃん、荷物まとめて、家でていってしまうかもしれない」。そんな不安のなかで思わず石を投げるということはいくらでもあると思います。

 土・日に朝昼晩と三つ弁当をもって朝、八時から学習塾通いさせられるなかで「ほんま、ぼくのやりたいことはそんなことやない」と思いながら、友だちとのちょっとしたいさかいから思わずムカッときてドアを蹴る。そういうことが背景にあるのではないでしょうか。

 つまりトラブルはけっして悪いことではないのです。トラブル自体が子どもの発信している成長の課題、あるいはSOSなのです。

 ところが、子育ての孤立化が進むなかにあって、このトラブルが、しかも学校は解決をいそぐあまり、説明のしかたによっては、子どもの成長の課題というよりは、イコールわが子への批判としてしか聞こえない。そしてそれはとりもなおさず、親である私への非難ということでつながってしまうということがあります。

 私はイチヤモン研究を続けるなかでつくづく思うのですが、大事なことがらは親を追い詰めないということです。どういうかたちで子どもが発信している成長課題を受けとめ、いっしょに考えることができるかどうか。 

 そのチャンスをどのようにつくれるかということが大事なのです。もちろん、石を投げたほうが悪いです。割れるのはあたりまえだとムチャをいった親、本人だって、たいていわかっているはずですし、いったあとに「ムチャをいった、まずい」とだいたい思っています。

 「ムチャをいった」という自覚をくすぐりながら、どういうかたちでいっしょに考えあうベクトルをつくつていけるか。このことが大事だと思います。

〈コメント〉

 私自身の実感でもあるのですが、「子どもの問題点」を指摘した時にクレームをつける保護者というのは「もしかしたら自分の育て方がが悪かったかもしれない。しかし、そう思いたくない。」という二つの思いが葛藤している場合が多いと思います。

 水谷修氏も指摘していますが、保護者が心の余裕を持ちにくくなっている状況の中、保護者を責めて追い込まないようにする、ということは大切なことだと思います。小野田教授の上記の文章も非常に大切な視点を提示しているように思うのです。


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2008.03.21
カテゴリ:悲鳴をあげる学校
小野田さんの提起

 大阪大学大学院教授小野田正利さんは『悲鳴をあげる学校―親の“イチャモン”から“結びあい”へ 』(旬報社)の著者です。この中では親の学校に対するチャモン(無理難題要求)が主なテーマとなっています。

 さて、「モンスターペアレント」などという言葉がいつから使われだしたのでしょうか。私自身はこの言葉に対して強い違和感を感じますが、小野田氏もこの言葉(あるいはその背後にある発想)に異議を申し立てています。

 ここでは、何回かにわたって『悲鳴をあげる学校』の最終章を引用しながら私なりのコメントをしたいと思います。

〈引用〉

1 保護者のみなさんへのお願い

 保護者のみなさんに一つ言いたいことがあります。
 それは、じつは今、学校現場は、受け身に回っているところがあります。保護者としての「思い」は、思いっきりそれぞれの先生に言うべきだと思います。そして、その言い方は、オブラートで包むということもときには必要かもしれませんが「ホンネはこれよ」と言っていただけませんか。

 「そこまでせんとあかんのかい、わしらは?」と思われるかもしれませんが、ぜひ、それはしてください。この部分の歩み寄りがないと、なかなか今の多忙で、忙殺されている学校現場からいくと、「思い」を受け止め損ねる場合が多くあるからです。

 この部分が大切と思います。私たちが、やはり人と人が結びあうときに、「本当のことを言うけどね、私、こう思うの……」と、言ってはいけない一線を超えてはいけませんが、そういうところをわきまえたうえで、言っていく必要があると思うのです。そして学校の先生方は、ぜひそういうことのウラ、ホンネは何か、この部分をきちんと見てほしいと思うのです。

 こうした問題は、個別レベルで、またささいなものはたくさんあります。
 「小野田先生。ほんまに私、小学校の教師を二〇年やってるけど、困ったわー。ある保護者の人は、『宿題が多すぎるから減らせ』と言ってくる。ある保護者の人は、『少なすぎるから、もっと出せ』と言ってくる。どうせえちゅうんでしょう」と聞かれることがよくあります。私は、笑いながらこう答えます。

 「どっちも本当です。要は、宿題が多い少ないということが本質的な問題ではなくて、子どもの教育のことで悩んでいる保護者がいて、そのことをきっかけとして、それであんたと話がしたいんだこういうメッセージとして、それは解釈しないといけないんだ」

 さらにこじれていったケースの場合のいくつかを見ていきますと、当事者は、学校教職員と保護者というかたちになりがちですが、そのなかで肝心の子どもは置き去りにされてしまうことがあります。

 私は教育の最大の顧客、つまりだれに対して責任を負うべきかといえば、それは「子ども」だと思っています。その点をまちがえてはいけないということも重ねて言っています。  

 なんだかんだとトラブルが起きてきますと、どう保護者に納得してもらうかということがつねに先になりがちですが、そのまえに、その子どもが、つまり肝心な子どもが、そのことで今、どういう状態に置かれているかということを、きちっと見据える。この点だけは、教師の側も親の側も、まちがえたらあかんのです。ここはすごく大事なことです。

〈コメント〉

 「モンスターペアレント」という言葉はそれ自体「連携すべき保護者と教職員」を対立させる危険性を持った言葉ですね。

 『悲鳴をあげる学校』の最終章で小野田教授は「学校への要求」をほどほどにしておくようにいっているわけではありません。保護者に対しては「子どものためにも」どのように要求していくといいのか、という点を訴えておられるのです。

 そして教職員に対しては過剰に防衛的になったり「無理難題」と切り捨てるのではなく「イチャモン」と思える言葉の中にも「保護者の真剣な教育要求が含まれていること」を受け止めていこう、と呼びかけます。
 
 教職員と保護者の対立の中で肝心の子どもが置き去りにされてはならない、と訴えているわけで全くもっともな主張だと思うのです。ただ、それが難しい現状があるとすれば、それを乗り越えていくことは保護者・教職員にとって大切な課題であるといえるでしょう。


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Last updated  2019.03.23 20:10:21
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