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教育論・教育問題

2018.02.14
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カテゴリ:教育論・教育問題

再掲・再確認の必要が生じましたので、重ねてお知らせします。

拙HP「しょうのページ」のアドレスは諸般の事情で​

http://shchan-3.punyu.jp/ に変更しました。
 

(原発問題で「電気事業連合会の問題等」を公開したころから、執拗な攻撃=プロバイダへのHP削除要求を受けるようになったためです。) 下記のページ等は、いずれにおいてもskywwwに変更していただければアクセス可能です。比較的アクセスの多かったものにリンクを張っておきますね。 

 

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Last updated  2019.01.26 11:58:24
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2015.08.25
カテゴリ:教育論・教育問題

 色々な評価がなされている安倍談話ですが、部分的には充分納得できる内容もあります。例えば以下の部分。

 「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります

 また、村山談話を引き継いでいく という点も当然評価されるべきでしょう。

 しかしながら、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くの人々を勇気づけた」と自慢したり、現在すすめようとしている安保法案を念頭に「積極的平和主義」という言葉を使うなど、談話の全体的内容がちぐはぐな印象を与えるのです。

〔「ダラダラした印象をぬぐえないちぐはぐな安倍談話」ですが、それとは対照的な「チャップリンの史上最高のスピーチ【独裁者】という動画」を知りました。ぜひご覧ください。〕

 http://ameblo.jp/shchan3/entry-12075502188.html

 また、冒頭で引用した「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」については全く異存ないのですが「向き合うべき歴史」の内実をどのように創っていくかが問題なのです。

 私が先日、あるコラムに投稿した以下の文章、よろしければご一読ください。

▼先日、県中部で行われた「新しい歴史教科書をつくる会 」が主催する会に参加した。会の目的は「子どもたちが日本に誇りを持てる教科書で学べるようにすること」だという。「これまでの教科書が日本を不当に悪く描いていたこと(自虐史観)を改めるべきだ」というのが、会の主張なのだ。

▼そうすると、ナチスの暴虐に正面から向き合い子どもたちに歴史を伝えようとするドイツの教科書こそ「自虐史観」の典型だということになるのだろうか。証拠が不十分だ(ない!)と主張しながら南京大虐殺や軍慰安婦という性奴隷制度を否定しようとする「つくる会」とは対照的に、ドイツは自ら現地取材も含めて事実を確認することで、教科書と歴史教育をつくり上げてきた。

▼「戦後五〇年」を機に、来日したワイツゼッガー元西ドイツ大統領は講演で述べている。「ドイツも日本も勇気をもって自らの過去と向き合い、それを伝えていくことが大切だ。そして、連合国も勝つためにとった手段が全て正当化されるものではないという事実に向き合う必要がある」と。子どもたちだけでなく我々にとって大切なことは、過去と向き合い「世界に通用する歴史観」を身につけることではないだろうか。

▼「つくる会」をはじめ、安易な自己正当化に走り、諸国の顰蹙を買うような人々の言動は「愛国的」でもなんでもない。戦後、周辺諸国にも尊敬されたドイツの歴史教育にこそ学ぶべきだろう。教科書づくり・教科書採択を含め、教育の内実が鋭く問われている。 

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Last updated  2015.09.21 10:08:38
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2015.08.15
カテゴリ:教育論・教育問題

 「戦後70年談話」で安倍首相は「歴史に真正面から向き合うこと」を強調しましたが、果たして言行を一致させることができるでしょうか。安保法案を何が何でも成立させようとすることや、歴史にまともに向き合っているように思えない育鵬社の教科書を推奨したり・・・。「談話」の内容にも結構突っ込みどころがあります。 (→末尾の注)

 ところで私は一か月以上前になりますが、「新しい歴史教科書をつくる会 」が主催する講演会「演題:日本を取り戻す教育」(講師:高橋史朗)に参加しました。

 めったに聞く話ではないので、その内容を要約しておきます。〔( )内は、私の心のつぶやきの一部です。〕

 自分は、渡米してGHQの文書を読み込み、研究してきた。
そこからわかったことは戦後GHQが、徹底的に日本人を洗脳し「義眼」をはめこんだことだ。例えば、靖国神社はA級戦犯が合祀されているから問題だといわれるが、そもそも「戦争を起こした罪」によって〔指導者を〕戦犯として裁くということは、当時の国際法からしても成立しない。
  『菊と刀』・・・ルース・ベネディクトのという戦略的論文がある。
 日本人には「内なる道徳律」がなく、世間の目(恥)が実質的な善悪の基準だという。
 日本の軍国主義(集団同調主義)は本質的なものとして日本人に染みついているという趣旨の記述もあり。日本に来たこともないルースがなぜ日本人の本質について語れるのか? おかしいではないか!

(中国・現地での聴き取り・取材・資料のまともな検討もしていない「特定の日本人」が、なぜ「南京事件」の虐殺は虚偽だなどと断言できるのでしょうねぇ:私)

 朝日新聞をはじめとする戦後のジャーナリズムを見ると、日本人がいかに「義眼」をはめられ「自虐史観」の染まっていったかがよくわかる。従軍慰安婦は嘘であったにもかかわらず、韓国が問題として激化させている

 GHQによって日本人は罪の意識を埋め込まれた。
 「原爆投下は戦争犯罪である」といった主張は言論界でも抑圧された。
 朝日新聞などは早い段階で「義眼」をはめこまれ、自己検閲をしてしまっている。

(そのような教育によって洗脳されたのは「ベトナム戦争」「イラク戦争」などに際しても一切米国を批判できない歴代首相では? 日米安保条約に基づいた「地位協定」という国際的にみても不平等な実態に関して歴代総理大臣が一言も発しないのは、ある意味「洗脳」状態にあるのでは? 「日本を取り戻す」というなら最低限見直し発言ぐらいすれば?:私 )

 「反日」の日本人が多い背景にはGHQによる洗脳がある。自虐的な教科書が横行している現実を変革していかなければならない。
 日本人は東京裁判を正当化する「太平洋戦争史」に毒されてきた。日本人の弱点はこのような実態への批判的精神に乏しいことだ。「太平洋戦争史」に教師たちは反論していない。武士道の精神が残虐行為につながったなど、誤解が横行しているにも関わらず。

 講演の要約は以上

〔講演会後の私の意見〕 

 中学に通っている子どもがいるが、私は自由社や育鵬社の教科書で学ばせたいとは思わない。子どもには「世界に通用する論理」を身につけてほしいからだ。「偏狭で自己中心的な観点から」自国の立場を強調する歴史を学ぶことは本当の誇り・「愛国心」とは無縁だと思う。
 まず、「世界に通用する論理」について例を挙げたい

1、「戦後50年」を機に来日したワイツゼッガー元西ドイツ大統領の演説
 彼は、ドイツも日本も勇気をもって自らの歴史と向き合うべきことを強調すると同時に、連合国が勝つために行ったことの全てが正当化されるわけでは決してないことを主張した。  
  東京大空襲等の無差別爆撃や原爆投下などを想定。

2、「東京裁判」におけるパール判事(しばしば右派に都合よく利用される)の論理
 日本軍国主義は欧米帝国主義の悪しき模倣であり、いずれも道義的には許されないことであると厳しく主張すると同時に、当時の国際法には「戦争を起こした罪」を裁く観点は明記されておらず、「事後法」によってA級戦犯を有罪とすることはできないと主張した。
 いずれも世界に通用する論理だと思う。偏狭な自己正当化を主張する歴史観が世界に通用するとは思えない。

 続いて、自国の行為・歴史の見方について、日本とは別の事例を挙げたい。
 私は過去に参加した原水爆禁止世界大会で、ある米国人のスピーチに感銘を受けた。彼女は、米国によって行われた「原爆投下」、「大空襲」を厳しく批判する(当時の米国人は日本人のことを「黄色い蛆虫」と呼んでいた!)と同時に、第二次大戦後、米国がベトナムやイラクで行ったことについて激しく非難していた。米国で彼女は「愛国心の足りない者」、「自虐的で不当に米国を貶めるもの」と非難されるかもしれない。しかし、このように真正面から自国の犯した犯罪行為に向き合う姿勢こそ、尊敬に足るものではないか。

(自由社や育鵬社の教科書はどうだろうか?) 

 最後に、「軍慰安婦」の問題について発言したい。仮に軍による直接的な韓国人女性の強制連行の証拠が見つからないとしよう。しかし、慰安婦制度には根本的な問題がある。そもそも韓国併合条約には「(日本による)韓国人の保護義務」が明記されている。

 慰安婦の多くが「業者等に騙されて連れてこられた」ことはよく知られた事実であるが、「騙されて連れてこられた人たち」は当然(警察・軍隊によって)保護され解放されるべきである。しかし、現実には一人の逃亡も許さない形で慰安所の中に拘束された。これは、明らかに「韓国人の保護義務」に反することを国家(軍隊)が行ったのではないか。(「性奴隷制度」という批判に反論できないのではないか?)

 私の、質問・意見は以上でした。

 講師の反応は省略します(一部「70年談話」と重なるような発言もありました)が、「そのような考えもあるんだ」という空気が会場に流れ、最後に主催者が、「先ほどのような質問・意見は私には出せない観点でした」とあいさつするなど、話はしてみるものだという「手応え」を得ることはできました。

 

(注)例えば談話の途中に出てくる「・・・危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」などは日本の自慢話ですが、この時代についてインドのネルーは以下のように証言しています。安倍談話がしっかり「歴史に向き合うもの」といえるのかどうか、ということですね。

ネルー著『父が子に語る世界歴史3』大山 聡訳 みすず書房(1975 10刷)               

 日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかということをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった。その苦い結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった。日本の勃興は、朝鮮の没落を意味した。日本は開国の当初から、すでに朝鮮と、満洲の一部を、自己の勢力範囲として目をつけていた。もちろん、日本はくりかえして中国の領土保全と、朝鮮の独立の尊重を宣言した。帝国主義国というものは、相手のものをはぎとりながら、平気で善意の保証をしたり、人殺しをしながら生命の神を聖公言したりする、下卑たやりくちの常習者なのだ。

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Last updated  2015.08.15 17:46:49
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2014.07.15
カテゴリ:教育論・教育問題

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Last updated  2019.03.01 23:15:57
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2013.01.12
カテゴリ:教育論・教育問題

「体罰は自立妨げ成長の芽摘む」桑田真澄さん経験踏まえ

朝日新聞デジタル 2013年1月11日20時51分


体罰について語る桑田真澄さん

 体罰問題について、元プロ野球投手の桑田真澄さんが朝日新聞の取材に応じ、「体罰は不要」と訴えた。殴られた経験を踏まえ、「子どもの自立を妨げ、成長の芽を摘みかねない」と指摘した。

 私は中学まで毎日のように練習で殴られていました。小学3年で6年のチームに入り、中学では1年でエースだったので、上級生のやっかみもあったと思います。殴られるのが嫌で仕方なかったし、グラウンドに行きたくありませんでした。今でも思い出したくない記憶です。

 早大大学院にいた2009年、論文執筆のため、プロ野球選手と東京六大学の野球部員の計約550人にアンケートをしました。

 体罰について尋ねると、「指導者から受けた」は中学で45%、高校で46%。「先輩から受けた」は中学36%、高校51%でした。「意外に少ないな」と思いました。

 ところが、アンケートでは「体罰は必要」「ときとして必要」との回答が83%にのぼりました。「あの指導のおかげで成功した」との思いからかもしれません。でも、肯定派の人に聞きたいのです。指導者や先輩の暴力で、失明したり大けがをしたりして選手生命を失うかもしれない。それでもいいのか、と。

 私は、体罰は必要ないと考えています。「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。

 指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか? 何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。「タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん」。そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です。

 今はコミュニケーションを大事にした新たな指導法が研究され、多くの本で紹介もされています。子どもが10人いれば、10通りの指導法があっていい。「この子にはどういう声かけをしたら、伸びるか」。時間はかかるかもしれないけど、そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。

 「練習中に水を飲むとバテる」と信じられていたので、私はPL学園時代、先輩たちに隠れて便器の水を飲み、渇きをしのいだことがあります。手洗い所の蛇口は針金で縛られていましたから。でも今、適度な水分補給は常識です。スポーツ医学も、道具も、戦術も進化し、指導者だけが立ち遅れていると感じます。

 体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という後ろ向きな思考に陥ります。それでは子どもの自立心が育たず、指示されたことしかやらない。自分でプレーの判断ができず、よい選手にはなれません。そして、日常生活でも、スポーツで養うべき判断力や精神力を生かせないでしょう。

 「極限状態に追い詰めて成長させるために」と体罰を正当化する人がいるかもしれませんが、殴ってうまくなるなら誰もがプロ選手になれます。私は、体罰を受けなかった高校時代に一番成長しました。「愛情の表れなら殴ってもよい」と言う人もいますが、私自身は体罰に愛を感じたことは一度もありません。伝わるかどうか分からない暴力より、指導者が教養を積んで伝えた方が確実です。

 日本のスポーツ指導者は、指導に情熱を傾けすぎた結果、体罰に及ぶ場合が多いように感じます。私も小学生から勝負の世界を経験してきましたし、今も中学生に野球を教えていますから、勝利にこだわる気持ちは分かります。しかし、アマチュアスポーツにおいて、「服従」で師弟が結びつく時代は終わりました。今回の残念な問題が、日本のスポーツ界が変わる契機になってほしいと思います。


 大阪府出身。PL学園高校時代に甲子園で計20勝を記録。プロ野球・巨人では通算173勝。米大リーグに移り、2008年に現役を引退した。09年4月から1年間、早稲田大大学院スポーツ科学研究科で学ぶ。現在はスポーツ報知評論家。今月、東京大野球部の特別コーチにも就任。著書に「野球を学問する」(共著)など。

〔コメント〕

 桑田さんの体験をもとにした上記の見解、本当に説得力がありますね。体罰が学校教育法で明確に禁じられているのは、桑田さんも言われるように本物の教育としては決して成り立たないからでしょう。

 学校現場の多くの指導者よりも桑田さんのほうがはるかに広い視野と教育的な見識をお持ちのようですこのような考え(発信)が、運動部の顧問や「強い指導」を求める保護者にしっかり届いていくことを願います

 なお、部活動を通して競技力や総合的な力が伸ばしていくために、指導者が「怒鳴ること」さえ必要でない(むしろマイナスになること)は、過去に運動部を担当した時に私自身も体験しました

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Last updated  2019.03.14 21:17:13
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2012.07.16
カテゴリ:教育論・教育問題
諸般の事情で心身が疲れていたこともあり、最近、「新しいブログ記事」を書いてアップすることもなかったのですが、大津市の中学生自殺の問題に関連した内容を、遅まきながらまとめておきます。

 何人かのグループが特定個人を継続的に「いじめる」というのも「一つの(ゆがんだ)人間関係」です。そのような「ゆがんだ人間関係」や「トラブル」は、子どもたちの力で(例えばクラスの第3者も含めて)修正したり解決していけること、そのような力をしっかりと育てていくことが大切であり、理想的だと考えます。

(緊急に大人が介入する必要がある場合にも、そのような長期的な指導の視点を手放してはならないでしょう。)

  しかし、大人である教職員が直ちに介入・指導する必要がある「切迫した状態」に追い込まれていることも少なくありません。ところが、おそらく中学生以上の場合、大人にはすぐに分からない場合が多い(本当に切迫した状況になってはじめて分かる場合が多い)のです

 いじめられている事実を大人に相談することはプライドが許さない、といった意識や、「大人に相談してもどうせ解決できない」という不信感(さらには絶望感)が背景にあると思われます。私が、このたびの事件と対応を見て危惧するのは、「大人も学校も信用できない」という子どもたちの意識が今以上に広がり、全国各地無数にあると思われる「深刻ないじめの解決」がますます難しくなることです

 大津市の事件で教育委員会や当該の中学校(さらに必要があれば第三者機関)に強く望むことは、「かけがえのない命が失われた」という点で遅きに失するとはいえ、事実をきちんと確認し、事件の責任を引き受けること。「大人も学校も捨てたものではない」ことを少しでも示すことです。当初の対応は、論外といえるほどひどいものでした。

 

 いじめの対応に関しては、実践の蓄積と情報交換が大切です。(特定の学校内だけでなく、学校の枠も超えて。)もちろん、プライバシーに関する充分な配慮は大切ですが、そのことが実践の蓄積と交流を妨げる口実になったり、深刻な状況に全く対応できない学校を残していくとすれば、問題は大きいといわなければなりません。

 ただ、たとえ組織的に対応していく力量のある学校でも「いじめの事実そのものが分かりにくい」ことが、対応を遅らせがちなことも確かです。

 私が経験した(関係した)ケースを2つ挙げておきます。

1、まじめな生徒であるが、なぜか2日連続遅刻をした。表情もさえない。不審に思った担任が昼休憩に呼んで話を聴いたところ、机上に汚いものが置かれていて、それが数日間続いていることが分かった。中学校時代から継続的にいじめられており、本人は学校に行くのも本当に気が重い、と言っている。

2、最近学校に行き渋る(理由をつけて休みたがる)のを不審に思った保護者が、本人と向き合い問い詰めたところ、いじめられていた事実(度の過ぎたからかいを受けたり、かばんのジュースが勝手に飲まれていたりしていたこと)が分かった。本人は学校をやめたい、と言っている。

1,2のいずれも、意図的に担任が個室で話を聴いたり、保護者が問い詰めるまで事実が分からなかったのです。

 2については拙 HP 「祭りの後のいじめとクラス」で紹介しました。が、もちろんこのケースのように全員への聞き取り調査を宣言しただけで当事者たちが名乗り出るとは限りません。1のケースでは手分けをしてクラス全員への聞き取りを実際に行いました。

 「机上に汚いものが置かれていた、という事実」はトイレなど人目につかない場所での暴行(当人にしか分からない事実)と比べてはっきり出しやすい、という点では対応が容易です。また、ネットいじめなどもよく問題になりますが、該当のページをコピーすることができれば、動かぬ証拠として明確な指導ができます。(もちろんプロバイダーに協力を依頼することが必要ですが・・・)

 また、(本人から聴き取った)いじめの事実そのものを出さなくても、「本人の様子がおかしい、学校に行きたがらない」という家族からの訴えを子どもたちに伝え、「学校で何かいやなことがあるのではないだろうか、知っていることがあれば書いてほしい」という形でアンケートを取る、というやりかたもあります

 いずれにせよ、事実がわかれば担任個人にとどまらず、学年・学校としての組織的対応は可能なのです。(もちろん、その見通しをひらいていくような実践の交流も大切。)

 確かに、いじめに対して学校は何もできないのではないか、と思う子どもたちが数多くいることは事実でしょう。しかし、水谷修氏(夜回り先生)が言うように「死なないでほしい、死ぬ前に誰かに相談してほしい」ということを願わずにはいられません。

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Last updated  2019.03.26 23:52:26
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2012.04.22
カテゴリ:教育論・教育問題
  前回の記事で私は、「認識」と「実践的な力・姿勢」というのは、一方通行的な関係ではなくダイナミックな「相互関係」にあるのではないか、と述べました。

 確かに「認識の深まり」が「実践的な力・姿勢」につながるという筋だけでなく、「実践的な姿勢(立場)の明確化」が「さらなる認識の深まり」につながるという視点は大切であると思われます。

 そうだとすれば、認識以外の何が「社会に向かう態度や実践的な姿勢」を形成するのでしょうか。

 私が、京都教育大学附属高校における札埜実践「国語としてできること」を(以前の記事で)検討して得た一つの結論は、具体的な他者(具体的経験)と直接・間接に出合い、それに共感することが、現在の様々な問題を「当事者として受け止め考えていく意思」を形成するのではないか、ということです。(詳しくは「東日本大震災を考える授業2」

 そのように考えると、具体的な「他者との出会い」を創り出すこと、共同で学び・実践する体験を創りだしていくこと(共有すること)は、「平和で民主的な国家・社会の形成者」となっていくうえで不可欠ではないか、と考えるのです。

 さて、以上のような文脈で「学びの共同体」の登場に関しても、その意味をとらえなおすことができるのではないでしょうか。そもそも「学びの共同体」は、「本当の学びを成立させること」と「関わりあいをつくること(集団づくり)」の双方につながる問題意識を明確に打ち出していると言えるのです。

 佐藤学は次のように述べています。「学びとは対象(教材)との出会いと対話であり、他者(仲間や教師)との出会いと対話であり、自己との出会いと対話である。私たちは他者との協同をとおして、多様な考え方と出会い、対象(教材)との新たな出会いと対話を実現して自らの思考を生み出し吟味することができる」(『学校の挑戦』36頁)

 これは、「学び」を成立させる条件というだけでなく、「他者と出会い共感する関係の中で自らの姿勢を形成していく意味を持つ」と考えられるのです。

 事実、佐藤は「協同的な学びの素晴らしさ」として、「誰とも話ができない緘黙の高志と、極めて英語を不得手とする幸子とのかかわり」を事例として挙げています。

 「幸子が疑問文をつくって高志に話しかけてくるたびに、大きくうなずき『うん、うん』とつぶやいて、『その英語で合ってるよ』というメッセージを懸命に送っていた。そのせいだろうか。高志のささやくような声は、幸子だけでなく、数メートル離れて観察している私の耳にも、はっきり届くほどの大きさになっていた。」

 「この幸子と高志の学び合う姿を見て、いったい誰が、高志が緘黙でもう何年も学校で口を開いたことのない生徒だと思うだろうか。そしていったい誰が、幸子が英語に関して極端な低学力の生徒で、たった30分前まで、人称代名詞とbe動詞との対応さえもまったく理解していなかった生徒であると思うだろうか。」

 「目前で進行している高志と幸子の学びあう関わり合いが、互いの強さではなく互いの弱さによってつながっていることに気づいて、私はいっそう感動の思いを深くした。」

 「幸子がこれほど必死で英語に取り組んだのは、高志が緘黙で人と会話ができないという弱さを何とか自分の力で支えたいと願ったからである。そして高志が幸子の問いかけにささやくような声で応えたのは、幸子の精一杯の行為に何とか応じようと思ったからである。」

 「それだけではなかった。高志が精一杯の誠意で幸子の問いかけに応えたのは、英語を大の苦手とする幸子がたどたどしく学ぶ姿を見て、高志のほうも精一杯の行為で励ましたいと思ったからである。この互いの行為の交換という『互恵的な関係』が、この二人の協同的な学びを生み出したのである。」(『学校の挑戦』32~35頁)

 正直なところ、初めてこの部分を読んだとき私は、授業の本質(例えば一つの問題について一緒に考えて意見を交換することで新たな視点を獲得したり認識を深めていく)とズレた事例ではないか、といった違和感を持ちました。

 しかしながら、そもそも「学びの共同体」が、「本当の学びを成立させること」と「関わりあいをつくること(集団づくり)」の双方につながる問題意識を持っていることを考えれば十分理解できると考え直したのです。

 上記の事例の中に生活指導の立場(生活が子どもたちを指導する=子どもたちは具体的生活や人間関係を通して成長していくという立場)との共通点、子どもたちの相互関係に注目した「集団づくり」との共通点を感じるのは、おそらく私だけではないでしょう。

 そして、このような「関わりあいの体験」から得られるものが、「競争に勝つためには友達でも利用するという姿勢」や「現代の貧困にあえぎ、自殺すれすれの精神生活を送っている人たちを自己責任のもとに切り捨てる姿勢」とは対極のものであることも、大方の合意が得られるのではないでしょうか。

 学びが、「習熟」に到達するためには「実践的な関心」(これは自分たちの問題だという当事者意識を持って現状認識に努め、実践的に問題解決を目指していくこと)が大切でありそのためにこそ様々な「出会い」が大きな意味を持つと思われます。人との出会い、具体的経験(生き方)との出会いに触発されながら、私たちは自分自身の生き方を深く考えるのではないでしょうか

 21世紀においてとりわけ大切だと考えられる「環境・人権などの問題」への取り組みにおいては(身近な「特別支援教育」一つをとってみても)、様々な他者を理解しようと努めながら関わり合いつながっていく「集団づくり」の観点を欠かすことはできない、と考えるのです。

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Last updated  2012.04.22 21:05:20
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2012.04.08
カテゴリ:教育論・教育問題
  田中耕治『教育評価』によれば、「戦後教育」の歩みはある意味「学力の問題史、論争史」だったといいます。ただ、戦後の学力論争は「論争」ではありましたが、はっきり共有されていた観点がありました。

 それは、「学力」の問題を、教育目標と教育評価との関係においてとらえること、でした。

 つけるべき力(「学力」)がついているかどうかの「評価」が重要であるという点では、論者の間に共通の認識があったのです。(『教育評価』99~100頁)

 ところが、このような大切な観点が1970年代まで忘れられてしまったのだといいます。それはなぜでしょうか。田中によれば、それは「相対評価」が評価を独占してしまったためです。(相対評価において問題になるのは全体の中の位置であって、教育の目標は視野の外におかれる)

 相対評価によって測られる受験学力、偏差値によって振り回されているかに見える受験競争、おそらくそれらが不登校、非行、いじめなど、学校内外で生じたさまざまな問題状況の背景にあることは、多くの論者が指摘するとおりだと思われます。

 さて、戦後の「学力論争」の中で、重要なテーマとなっていたのは、認識の積み上げ・深まりがいかにして、人間としての実践的態度や「社会に能動的に参加していく姿勢」につながっていくか、ということです。

 受験競争の「勝者」は、豊富な「知識」(「学力」?)を身につけているはずです。しかし、一人ひとりが「生存権も含めて、一人ひとりが真に尊重されるような『平和で民主的な国家・社会の形成者』」としての「姿勢」と力を身につけているのか、問わなければならないでしょう。

 教育学者の中内敏夫は『教室をひらく』の中で、「社会や他者に向き合い働きかけていく力・姿勢」に直接結びつくような「積み上げられ、こなされた認識の段階」のことを、心情や心の持ち方を意味する「態度」ではなく、「習熟」という概念で説明します。

 中内の言う習熟というのは、「身についた知識」、「その人のものになった方法」といった「行動に結びつくレベルに到達した学び」のことです。「習得」した教育内容が主体によって充分にこなされ「習熟」の段階に達することを目指すのが(おもに教科)教育の目標だというのです。

 なるほど、知識が個人によって充分こなされ「身についた知識」、「その人のものになった方法」になれば、それは行動に結びつく可能性を高めるでしょう。しかし、まだここにははっきりとしない問題が残っているように思われます。

 一例を挙げると、 「多くの自殺や貧困を生み出している現代社会」の分析を充分にこなし、問題点を総合的に理解し、解決に向けての展望を把握する(例えば現代社会への認識を習熟のレベルに到達させ、『反貧困』という本を書き上げる)ためには、この問題を「当事者意識を持って受け止め、立ち向かう」ことが不可欠でしょう。各種「公害問題」や「環境問題」などについても同様です。

 ここで注目したいのは、認識を深める(習熟に到達させる)ことによって行動にむかう姿勢が形成されるだけでなく、逆に行動への意思が認識を深めていく契機になるという側面です。「認識」と「実践的な力・姿勢」というのは、一方通行的な関係ではなくダイナミックな「相互関係」にあるものと考えるべきでしょう。                                     

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2012.02.27
カテゴリ:教育論・教育問題

 チャップリンの「独裁者」を子どもたちが演じる授業の実際を以下に引用します。
 〔高生研第48回全国大会紀要の内容(大会基調)の一部〕

 引用開始
 共同作業が子どもたちに予期せぬ力を発揮させることがあります。
 クラスで映画「独裁者」最後の演説を教材化したときのことです。個別に黙読している間は暗唱に苦労していましたが、映画で演説の場面を見たのちに「チャップリンは一人でこの演説をしているけれども、みんなは6人で協力して演説の核心を表現できるよう工夫してください」とグループ読みを提起したとたんに、生徒たちが変わりました

 この教材の与える力は大きくて、生徒たちは好んで何度もスピーチ場面を見直して研究しました。

 グループ分けを生徒の要望に応じて柔軟に行い「グループ6人が単に均等な分量を担当するというのではなくて、あるところは二人で、あるところは全員で読む、という風に声のボリュームを変えることで伝える力を工夫してください」と要請すると、それに応えて呼吸を合わせる練習をするグループや、一人読みと全体読みを交互に組み合わせてインパクトを生み出す効果を狙ったグループなど、それぞれが個性に応じた分担の仕方をしていました

 何よりも生徒は読みを楽しんでおり、普段暗唱が苦手な生徒も他の生徒のノリに巻き込まれてSoldirs!と叫びながら全員がこぶしを振り上げるなど、生き生きと活動しました
 教材の力とともに、共同作業を生徒の側から育てることの大切さを実感しました。
 以上、引用終わり。

 私は上記のような生徒の活動を読んで、「教材の力」はきっと大きなものだったのだろう、と想像していました。私自身は映画「独裁者」を見たことがなかったのです。

 しかし、20日ほど前にKUMA0504さんのブログ(再出発日記)で「独裁者」の演説に貼り付けてある映像(映画のラストシーン)を見て納得しました。この素晴らしい映画は見る者の心に訴える強い力を確かに持っている、と。生徒たちが楽しみつつ「独裁者」を演じることは、「世界に関わっていくありかた」について「訴える主体」を疑似体験することでもあります

 生徒たちは、主人公に感情移入しつつ協同で演じる体験を通して、真剣に考えながら一歩前に踏み出そうとする自分を感じていたのではないでしょうか。
 ぜひリンク先の映像をご視聴いただければと思います。


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2012.01.14
カテゴリ:教育論・教育問題

 大阪の「教育基本条例案」。一体どうなっていくのでしょうか。 

 大阪の仲間(教職員)から下記の集会について連絡をもらいましたので転載します。

           記

 集会のご案内です。「教育基本条例に反対するシンポジウム」が1月28日(土)13:30~17:00 守口文化センターで開催されます。

http://homepage2.nifty.com/osaka-kouseiken/jourei0128simpochirasi.pdf 

 パネリストは池田知隆さん(前大阪市教育委員長・「どうなる!大阪の教育」編著者)、佐藤学さん(東大教授)、野田正彰さん(精神病理学者・関学大)、前田佐和子さん(地球物理学者)で香山リカさん(精神科医)もかけつけるとのことです。

 呼びかけ人には「大阪の教育のあしたを考える会」の小野田正利阪大教授も名を連ねられています。みなさん、これからもぜひ基本条例の行方にご注目お願いします。

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