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カテゴリ:英文法、ルターの提案
「ソシュール」理解のおかげで、 ルターは英語の時制、冠詞のことが理解できました。 ソシュールに感謝。 1 恣意性と「シニフィアン」「シニフィエ」 ※ソシュール(Ferdinand de Saussure 1857-1913) スイスの言語学者。ジュネーブ大学教授。文法体系としての言語(langue)と個人的言説(parole)の峻別、言語記号の聴覚・映像的側面と概念内容的側面の区別などの理論装置によって構造主義言語学の端緒を開き、現代の文芸批評・文化人類学などにも大きな影響を与えることになった。主著は『一般言語学講義』。(『角川世界史辞典』2001) 1.1 「恣意性」はそんなに大事じゃない、本当は「連合[体系]と統合」が大事だ! 言葉と物を実感として捉えることから自由になってコトバとコトバの関係性を見ようよ、と呼びかけたソシュール。この恣意性という概念は「連合と統合」という重要な概念につなげる踏み台だったと思われるが、その踏み台のみに皆の注目が集まってしまった。それはひとつの悲劇である。 「コトバとモノは恣意的な関係だって? でもカッコウはカッコウって鳴いているからカッコウなんじゃないか! カッコウはワンワンやコケコッコーって鳴いていないぞ」という日常的な実感に基づく素朴な反論がある。そこでソシュールは事柄と記号表現には有機的なつながりがあるという「動機性」という概念や「モノとコトバの関係が恣意的」というと反発があるので「コトとコトバの関係は恣意的」と歯切れの悪い修正を行った。でもそんな修正ではソシュールの真意が伝わらない。 1.2 言葉と物を離してみよう! 言葉の世界で戯れるために 日本語を母語とする話し手には「なるほどイヌはイヌだ」と、まるで言葉が物に1対1対応で「名札」のようにくっついている感じがして、自明のこととして浮かんでくる。しかしながら、そうだからといってイヌの本質がじわーっとエッセンスのように「イヌ〜」と滲み出してきてきているわけではない。ゆえに「シンボル」とは異なるとソシュールも言っている(講義注解p. 21)。話し手の母語が異なれば「イヌ」ではなく、dog / chienなのだから。 ソシュールの思想とはどんなものか。言うなれば「無の思想」だ。 ※ひとつの悲劇について:それはまるで「譲歩+主張」のレトリックで伏線として張った「譲歩」の部分を話の本筋の主張と勘違いされるのに等しい。例えば「私のこと嫌いかもしれないけれど…、あなたが好き」の前半部分は譲歩に当たるが、「私のこと嫌い…」と、そこまで聞いた相手が真に受けて、間髪入れず「その通り。お前なんか嫌い」が返ってくる悲劇に似ている。「いいたかったのは、そっちじゃないんだー」 ソシュールもそんな気持ちだったのではないかな? 2 ネガティブvs. ポジティブ 2.1 「まんじゅうのたとえ」と「風船のたとえ」 丸山圭三郎は、コトバ同士の対比的な在り方、コトバ同士の意味の奪い合いを「箱に入れた風船」にたとえた(丸山圭三郎(1981)『ソシュールの思想』岩波書店p. 96)。まず、まんじゅうのたとえでは、まんじゅうが箱から1つ消えるとほっかりと穴が空く。これは、ことばがポジティブな在り方だとしたら、という話。 それに対して、風船のたとえでは、膨らんで押し合いへし合いしているいくつかの風船が箱に詰まっているとしたら、1つ消えてもぽっかり空間が空いてしまうのではなく、他の風船が膨らんできてその空間を埋めてしまって、あたかもその空間は無かったかのように、ふたたび押し合いへし合いが始まる。これがソシュールが提案した、ことばがネガティブな在り方だ、という話。 2.2 なぜ、無の思想は人気がないのか? ソシュールのいうように、ことばがネガティブな在り方だとして、1つの言葉が消滅しても、ポッカリと空洞が空くわけではない。同じように1人の人間が消えても世の中にポッカリと空洞が空くわけではない…、とアナロジー[類推]して、自分のことに置き換えるとどうもさびしくなってしまう。「私がいなくなっても世の中変わらないのか…」。無の思想が不人気なのはこういうわけだ。しかしながら、「存在は無である」と前提することでしか見えないもの、そうすることで見えてくることもあるのではないかとソシュールは言いたいのだろう。 算数のツルカメ算だって、カメもツルも居るという前提なのに「全部がカメだとしたら…」から始める。感性から離陸する。理論っていうのはそういうものだ。 3 共時態vs. 通時態 ラングvs. パロール 3.1 通時態あっての共時態 ソシュールは通時態を否定しているわけではない。「歴史的な言語学も良いけれど、今までの言語学は歴史(線の物語)であって、科学(面で説明している)とはいえない。ほら、ここに科学的な言語学もありますよ」とソシュールは提案したかっただけなのだ。しかし通時態に慣れ親しんだ人々からは、自分たちが否定されたかのように受け止められ、猛反発をくらった。 この食い違いは天動説対地動説、男性対女性の争いと似ている。お父さんあってのお母さん、夫あってこその妻。昨今のお父さん、夫は、立ててもらえず、まるでそこにはいないかのごとく扱われて泣き寝入り。あるいは「おれはいるんだ」と激怒するお父さんや夫。悲しい世の中。でも男性あっての女性ですよ、やっぱり。 3.2 共時態は科学的 「マルクス主義は科学的」と主張したいアルチュセールが科学的な共時態を擁護するのも、もっともなこと。 3.3 ラング 「ラング」という概念は、記述言語学に対する封じ込めとして持ち出した概念だと思う。極論してしまうと、具体的なパロールを重視する記述言語学のアプローチは「あっ」「うー」とか、かまわず採集したり、実際のパロールは玉石混淆なのに「こういう言い方も実際にある」「ネイティブスピーカーはこういっている」と何でもかんでも金科玉条のように扱ったりする危険性がある。それは「木を見て森を見ず」になったり、「あれもある、これもある」と情報の洪水の中で溺れてしまったりすることにつながる。だからソシュールは抽象的なものを対象とする科学的な言語学でないといけないと考えた。ソシュールは「森」を見たかったのだ。 4 連合[体系]と統合 ●ポール・リクール/久米博 訳『時間と物語 フィクション物語における時間の統合形象化』新曜社(1988) 言語学者バンヴェニストEmile BenvenistやヴァインリヒHarald Weinrichらの諸説を取り上げて、時間とテキストの関係を考察した本。 体系 その文化における概念のセット(体系)の中で「(コリント式やイオニア式などではなく)ドーリア式」というように、暗黙の内に対比的に意味が定まる。また、この概念のセット(体系)は聞き手がその文化を共有していない場合には意味の確定の場が見えていない。
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Last updated
2018.12.23 08:50:25
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