|
カテゴリ:テレビ番組
「にっぽん歴史鑑定」のお題は源頼朝。
流人にされた彼が征夷大将軍になるまでを分析した内容(1/10日放送) ・頼朝は源義朝の三男として誕生。兄が二人(長男の悪源太義平、次男の朝長)いたが、母が熱田神宮大宮司藤原季範の娘ということで嫡男として扱われ、兄より早く出世している。 頼朝の初陣は平治の乱だが、近江で平氏配下の者に捕らえられて清盛のところに送られ死刑やむなしか・・・と思いきや清盛の義母・池禅尼に助命されて伊豆に流されることに。 武士の男子は敵軍の捕虜になった場合死刑を宣告されるのが普通だが、助命嘆願には後白河院、上西門院の意向が働いていたと言われている。伊豆での生活はというと読経を続ける毎日。 1180年に「以仁王の乱」が起こる。戦いは平家側の勝利に終わり、中心人物の以仁王と源頼政は敗死。しかし「平氏を討て」という以仁王の宣旨は平氏に不満を持つ武士に伝わっていき、それを受けた頼朝も挙兵するも石橋山の戦いで大負けし、安房国で再起を窺うことに。平氏に不満を持つ武士に「味方になってくれ」と御内書を送りまくった結果、関東の武士たちが味方に。頼朝が関東の武士を味方につけることに成功した理由は「平家に幽閉されている後白河法皇を助ける」という大義名分を作って・・とのこと。味方になってくれた武士の中でも上総広常は2万の大軍を率いて味方になった・・という話は出てきてない。 平家傘下の武将の中にも頼朝に下る人も出てきた。なんで寄せ集めをまとめられたのかというと戦に勝ったら平家の所領を恩賞として与えるとやる気を起こさせるようにさせるとは人心掌握術に長けているなぁ 鎌倉を拠点に東国の地固めに成功した頼朝は上洛することを決めた。上洛する動機は後白河法皇に流人の立場を解いてもらおうと考えたり、清盛が熱病で死ぬと平家との和平を考えるように。和平は平氏が猛反対したためにお流れに。実は頼朝は成立しない和平案を上奏したのではというのは初耳。 平氏の和平が成立しない中、従兄弟の木曽義仲が上洛し、征夷大将軍に。しかし義仲軍は都で乱暴狼藉を働いたので法皇の不興を買うことに。それを利用して謀反人の汚名を返上してもらい、官位をもらってるってしたたかですね。頼朝は 1185年、壇ノ浦で平氏が滅亡するも、新たな問題が・・・義経が平氏を滅ぼしたのはいいが、三種の神器を取り戻せなかったので義経と対立することに。それだけじゃなく法皇から義経が検非違使の官位をもらったことも原因ってのが俗説だが、義経が勝手に検非違使になったのではなく頼朝は承知の上。問題が義経の検非違使留任の方。頼朝は義経には国司になってもらって(国司は別に任地に行かなくてもいいから)、鎌倉に呼び戻して自分のもとに置いておこうと思ったのに検非違使を解任しなかったのが対立の原因の一つだったのが初耳。 跡継ぎ問題も絡んでいたのも初耳。 奥州藤原氏を倒した頼朝は右近衛大将に任じられるが、京に居続ける仕事だったのですぐに辞任。1192年に征夷大将軍に、1195年に再び上洛しているが、長女の大姫を後鳥羽天皇の后にし、朝廷とのコネを持とうとしていた・・・って話は「逆説の日本史」で説明されていたけど、武家政権を作るって言っておきながら朝廷とコネを持とうと考えるって都合がいいのでは? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[テレビ番組] カテゴリの最新記事
>武家政権を作るって言っておきながら朝廷とコネを持とうと考えるって都合がいいのでは?
まぁ、コネ作っとけば何かと便利だとは思いますがね。使える手札は多く持ってた方が好いハズですし (Mar 1, 2022 07:13:29 PM) |
|