出石で、念願の皿蕎麦。でも雨降りだし・・・
今日もまた2年前の丹後ドライブ旅行の紹介で、今回は最終日に出かけた「出石(いずし)」だ。それにしてもこの周辺って、本当見どころがいっぱいで本当はここから近い天空の城とも言われる竹田城も行きたかったけど、ご覧のように天候不順で断念。ここにも「出石城」があったが雨がひどいので登城は断念但馬国の守護であった名門の山名氏も、戦国の世に滅びて小出吉政の領地となり、関ヶ原の戦いでは真田氏と同様に小出氏は家名の存続の為、吉政が西軍、弟の秀家は東軍に分かれて戦ったのだが、秀家の功績により吉政の西軍への加担の責任も問われずに済み、出石の領土は安堵となった慶長9(1604)年に吉政が和泉国岸和田藩に移った後長男の吉英が但馬国出石藩6万石を引き継ぎ、有子山城の山麓の郭および館のみを「出石城」と命名し、幕府に届け城下町も整備がされ、出石の町並みが形成されたそうだ「辰鼓楼(しんころう)」は、旧藩医であった蘭方医の池口忠恕が大病を患った際に、多くの人々が病気快癒の願掛けをしてくれた感謝にと回復後に、オランダ製の機械式大時計を取り寄せ町に寄贈したもので、明治4(1871)年に完成 そして出石と言えば、やっぱお蕎麦だ! 松本のそば祭りでも食べた事があるが本場で食べてこそっという感じで、「近又」さんに出かけてみる。「新そば」の張り紙がまた嬉しい宝永3(1706)年に、信濃の上田藩の仙石氏が、出石藩へお国替えとなったので、蕎麦職人を連れてきた事で出石蕎麦が始まった。現在の様な皿に盛るのは、幕末に屋台で持ち運びが便利なので始まったそうで、戦後に今の出石皿そばとなった皿に蕎麦の量が2~3口程盛られ、一人前は5皿で供されるが1皿単位での追加注文が出来る店が多い。ダシの他に薬味の刻みネギ、おろし大根、おろしワサビ、トロロ、生鶏卵1個などが出される。古い話なので記憶はあいまいだが、二人でたぶん15皿を頼んでみた雨だし街歩きも楽しくないので、家老屋敷を有料だけど見学をする事にした 詳しくは ↓「ウィキペディア」より転載をさせていただきました>出石城の内堀の近く、江戸時代後期の上級武士の居住区であった>内町通りに面して当屋敷がある。 仙石騒動の中心人物の一人で>ある仙石左京の屋敷跡に建つことから左京屋敷とも呼ばれる当屋敷の>外観は平屋建に見えるが、内部には隠し階段が仕組まれており>2階建である。 刀を使い難くするためか天井は低く造られ、屋根>上への通路も存在する >これらは、襲撃に備えて造られたものと推定されている。 館内は>仙石騒動の資料をはじめ無形文化財の大名行列諸道具など出石藩に>関する資料が展示されている 江戸時代の三大お家騒動の一つとされる「仙石騒動」とは >文政7年(1824年)藩主仙石政美が参勤交代で出府する途中で発病し>江戸についてまもなく28歳の若さで病没する。政美には嗣子が無く>隠居していた政美の父久道が江戸で後嗣を選定するため、分家の>旗本を含めての会議を開いた。仙石左京は筆頭家老であるため>国許の代表者として江戸へ出るが、実子小太郎を同伴させた>これを左京が小太郎を後継に推すのではと不信感を抱いた造酒は>実弟の酒匂清兵衛を同道させ監視した。会議は造酒派の主導で進み>久道の十二男で政美の弟である道之助を元服させ久利として藩主に>据えることで決定した。左京は小太郎を後継に主張することも無く>賛成した。こうして藩政の実権は造酒派が完全に掌握し、左京の>政策は全て廃止された>しかし、造酒が側近の桜井良蔵を重用したことから同じ造酒派内で>家老磯野源太左衛門と造酒、清兵衛が激しく対立し、乱闘騒ぎまで>起こす。この事件の責任を問われ源太左衛門、造酒、清兵衛は隠居を>余儀なくされる。幼君の下、筆頭家老として人事権を握った左京は>反撃に出て藩重役は造酒の息子主計以外はみな左京派に挿げ替えられた >造酒の政策である藩札の切り替えによって流通量を半減させる政策が>失敗し、上方商人からの借り入れが不可能になると、その責任を>問われて主計も失脚する。藩政を掌握した左京は再び改革を始めた>家族一人あたり一石八斗以上の俸禄は禄高数に関係なく全額借り>上げる面扶持制を導入し人件費を大幅に抑えた>また物産会所を復活し、領外商人を締め出し御用商人に特権を与える>代わりに運上金を増徴する。そして江戸詰めの造酒派重臣荒木玄蕃の>不正が発覚したことからこれを免職し、藩政の最高権力者になった>天保2年(1831年)左京は息子小太郎の嫁に幕府筆頭老中松平康任の姪を>迎えた。これに対し仙石主計、酒匂清兵衛、荒木玄蕃、原市郎右衛門と>いった造酒派の重臣は左京が小太郎を藩主に据えようとしていると>先々代藩主久道に直訴する>久道は全く相手にせず、かえって4人は久道の怒りを買い蟄居を命じ>られる。同じ造酒派でこの行動の首謀者であった河野瀬兵衛は藩を追放>された。瀬兵衛は江戸に上り天保4年(1833年)、一門の旗本仙石弥三郎に>上書を提出して訴えた。この上書は久道夫人(常真院)に渡った。左京の>政策から、江戸屋敷での経費も大幅に節減され耐乏生活を送っていた>久道夫人は上書の内容をそのまま信じ、左京が藩士から取上げた俸禄を>不正に蓄財しているとして国許で隠居している久道に左京の非を激しく>訴えた>久道から夫人の書状を見せられた左京は重臣を江戸に上らせ、久道夫人に>弁明をすると共に瀬兵衛の消息を掴むことに全力を挙げた。藩内に潜伏>していた瀬兵衛は天領生野銀山にまで逃げたが捕縛された。本来天領>での捕縛には幕府の勘定奉行の許諾が必要で、無断捕縛は違法であった>しかし、左京は老中松平康任にこの事実をもみ消してもらう。そして>瀬兵衛に加担し仙石弥三郎に引き合わせた弥三郎の家臣神谷転の捕縛を>老中松平康任の伝で南町奉行に実行させた>身の危険を感じた神谷は虚無僧になって江戸に潜伏していたが、南町奉行所に>捕縛されてしまった。この事態に神谷が帰依所属していた普化宗一月寺が>僧は寺社奉行の管轄に属し、町奉行に捕縛権限はないので違法であり、即時>釈放することを、寺社奉行所に神谷が所持していた瀬兵衛の上書の控と>共に訴えた。また、久道夫人は実家である姫路藩邸に赴き、藩主酒井忠学の>妻で将軍家斉の娘喜代姫にも藩の騒動を話していた>寺社奉行の脇坂安董は松平康任に対抗し、権力掌握を狙っていた老中水野>忠邦に仙石藩の騒動と康任の関係を報告した。康任を失脚させるため、>水野忠邦と脇坂安董は左京が仙石家の乗っ取りを策謀しているとして将軍>家斉に言上する。喜代姫経由で仙石藩の騒動は家斉の耳にも達しており、>家斉はこの騒動を寺社奉行、町奉行、公事方勘定奉行で構成される評定所が>裁定し、その責任者を脇坂安董とすることに決める>実際の調査取調べは寺社奉行吟味物調役である川路弥吉(のちの川路聖謨)が>行った。天保6年(1835年)裁定が下され、仙石左京は獄門になり、鈴ヶ森に>晒首された。左京の側近宇野甚助も斬罪となり、左京の子小太郎は八丈島へ>流罪になるなど、左京派は壊滅的打撃を受けた。藩主久利に直接お咎めは>無かったが、出石藩は知行を5万8千石から3万石に減封となった 平成24年11月17日に出石で撮影