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カテゴリ:政治あるいは自由論
なんだか久しぶりなので、どうやって書いていいかわからず、ちょっと怖い。根っからの人見知りの俺は、ブランクの後には、いつも新鮮なる緊張を感じる。
そう、かわいいヤツなわけだ。 ちなみに、俺を知っている(名前や外見などの情報を知っている;あるいは、俺の声を聞いたことがある)人のなかには、俺が社交的だと勘違いしている人が多いが、集団のなかで話題を整理したり、中心になったりするのは、その場にその必要があるからであって、俺は決して好んでやっていない。相当無理をしている。 また、このブログをご覧の皆様には、俺は毒舌に映っているかもしれないが、リアルな俺(身体までセットの俺)はかなり礼儀正しく、とても柔和だという評価で一致している。(自分で書くと本当に笑えるな。) さて、というわけで、年末年始休んでいたので、旧年中ブログ上で発見できた優れたサイトの皆様にお礼申し上げる。勝手に学ばせて頂いている。ありがとうございました。今年も勝手に学ばせて頂く。宜しくお願い致します。 ■今年はどうも個人的に大飛躍の年になる気がしている なんだか勝手にそう思っている。たぶんそうなる。 ■今年ここまで 今年初めての誕生日を迎え、歳をひとつ重ねた。今年初めての風邪をひいた。今年初めての旅行に行き、今年初めての温泉に浸かった。今年初めての碁を打ち、今年初めての酒を飲んだ。 ■「Stop The Koizumi」について 俺は「Stop The Koizumi」というブロガー同盟に参加している。俺の参加スタンスは今の政治の方向性にNOという一言につきる。だが、政治に比較的無関心な層は、俺から見ると大変グロテスクな政治状況なのに、この最悪方向への変化に対して何だか曖昧な期待をしているようだ。だから俺は、できることの一つとして、結社の自由を行使して、表現の自由に力を与える方向を求めているわけだ。ブログの内容なんてどうでもいい。NOというシンボルが俺のような弱者の政治的発言だ。皆で掲げれば力を持つ。 人が集まると権力関係が生じ、そこを曖昧にしておくと、大抵歪みが出てくるものだ。権力は元来遍在しているものなので、大切なのはそれをignore(「無視」というか「見て見ぬ振り」)することではなく、制御できるようにすることだと俺は考えている。ただし、力(意思決定権)のある側には、そうした関係性における責任もより多くあるということだけは述べておかねばなるまい。 今年、小泉が変わるとき、この同盟の名目上の終わりが来るかもしれないが、そうなるとさらに終わり方が重要だろうと思う。小泉以後が酷い道をたどらないためにも、いや、たどったときのためにこそ、今やらねばなるまい。俺は参院選の勝ち負けも大切だと思うが、それよりも、間違った流れを変えるチャンスというのは、やはりこうした豊穣な言説の積み重なりがあるからだと思っている。 私見では、この同盟は、(こう言ってよければ)近代型戦略とポストモダン戦略のどちらの戦略を採るかについて、迷っている。しかも無自覚に。つまり、既存の政党のような「カタチから入り、一つの意思を求める」方向性と、ネグり=ハートの「マルチチュード」のような非主体的連帯との差異をあまり自覚しきれていないし、時に揺れ動いているように感じる。俺はどちらでもいい。ただ、俺のスタンスははっきりと後者だ。俺は<境界>をもたないよう努めている。 ■民営化より民主化 政治(というか、現状)に対する不満は皆持っていて、それをどうにかしなければいけない(どうにかしてほしい)とも思っている。だが、一般人にはその方策がわからない。 だから、半ば詐欺的な「民営化」という語に期待してしまう。しかし、中身を見れば、より問題を隠蔽するものだし、より責任を不明確にするものだし、より国民の手から遠くなるものであることはすぐにわかるはずだ。 大切なのは、国民の生活にかかわることは、いつでも国民の監視と制御のもとに置かれるということのはずであり、うまくいかなくなったから民間に勝手にやらせようって論理がおかしいのは誰でもわかるはずだ。 民営化全般を俺は言ってるんじゃないことは判ってもらえると思う。大切なのは、何を民営化するかについてのちゃんとした議論だ。規制の緩和が盲目的に進むというのは、安全に配慮して作ってきたルールを一気に考えもせずに壊すのと同じであるわけだ。 刑務所や軍隊組織までが民営化されているアメリカのような、金儲けのための戦争を起こすように働きかける勢力が存在する状況は決していいとは思えまい。ここでも、社会的弱者が損をする。 権利の歴史もそうだ。経済活動の自由の暴力性が暴かれてきたからこそ、歴史的に認められてきた精神の自由や社会権などは、そうした意味で、公正を求める人間が作り上げてきたルールだ。それを「努力した人が報われる社会にする」などといった嘘八百の言葉で壊そうというのはどういうことだ。こうした歴史的成果としての規制を取り去ろうとする新自由主義を黙って見過ごせるはずが無い。 お前が今すべての財産と肩書きを捨てて、整形をし、身分も隠し、「努力だけ」でのし上がってやるよ、と言えるヤツだけ吐いておくれ。そして、実行してみておくれ。こういうことを平気で言うやつらには、財産も教育も無いところから頑張らなきゃならない層だっているということに気付かない致命的な想像力の欠如しか感じられない。 ■ドラえもんの一番のプレゼント のびたにとって、一番のプレゼントは、どこでもドアでも、タケコプターでもなく、ドラえもんそれ自身だ。のびたは、いじめられ、家でも相手にされず、先生にも受け入れられずという社会的弱者だ。 彼を放っておいたら、間違いなくグレる。そんな弱いやつが? いや、俺もいろいろ見てきたが、グレるやつのほとんどは弱い。のびたみたいなやつが不良と呼ばれる存在になっていく。あるいは、最近では、引き篭もっていく。 のびたに必要なのは、道具での仕返しではない。話し相手だ。 道具での仕返しでは、いつまでたっても、根源的欲求に届かない。彼に必要なのは、ドラえもんその人だ。 ■こんな調子で ことしも始まったわけだが、続きはおいおい書いていく文章ってことで。 ただ、今年はどこかで、週2くらいのペースにせざるをえないかもしれない。 いずれにしても、よろしく。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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