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カテゴリ:政治あるいは自由論
私見では、近代は、キリスト教、社会契約、憲法に表象されている。もちろん、国民国家(ネーション=ステート)や資本主義というものは、近代を語る上で絶対に外せないものだが、そこで語られることとは別の側面について考えたいわけだ。
と、ここまで書いて、すぐさまミスリードする可能性があることに気付いたので、こう訂正したい。 私見では、近代は、キリスト教的なもの=社会契約的なもの=憲法的なものに表象されている。 ■キリスト教的なもの キリスト教はキリストの<身体>を通して「世界宗教」となった。これは大きな出来事だと思われる。 それまでの宗教が、土着的なもので、宗教なのか習俗なのかわからなかったのに対し、キリスト教は「土」から離れた最初の宗教だと言える(もちろん、ここには若干の単純化があって、「土」からの乖離がはっきりするのはプロテスタンティズムの誕生を待たねばならないが、その萌芽は当初からあった)。 「土着」の宗教においては、教義が根本にあるのではなく、生活が根本にある。生活の必要から、いわばオートポイエーシスのように、「教義」が生じていく。そう、まるでコモン・ローのように。 キリスト教は、教義を上から被せる形で、世界を覆った。 そこでの共感原理は、「土」ではなく、何か他のものであった(それをキリストの<身体>とでも呼んでおこうか)。 いうまでも無く、この国の「茶番的な近代化」においては、キリスト教の真似真似宗教が造りだされたわけだが、それも「土」から離れたものであったことは言うまでも無い(ちなみに、その形成は江戸時代に用意されていた。神道が宗教的体面を整えたのは江戸期で、それは儒家によって理論家された「儒家神道」だったという指摘もある)。 ■社会契約的なもの 社会契約への批判の重要なものとして、「土」を無視しているということは、当初からずっと言われてきた。 社会契約は、「生活」に根ざした「統治」(ヒュームのコンベンションに拠るような)が限界を有したところにおいて、極度に抽象化された原理として登場したと言えるかもしれない(もちろん、社会契約説自体は古代からあるのだが、実際に力を持ったという意味において、ここでは17、18世紀のものを指そう)。 極度に抽象化されていることにおいて、その「批判原理」としての価値は現代でも全く色褪せていないと思うが(たとえば、ロールズは「正議論」においてそのことを言明している)、それのみを「原理」とした社会がいかなる方向に帰結するかは、全くわからない。 社会契約では、われわれは「(「土」的な)エトノス」ではなく、「(契約参加者としての)デモス」として想定されている。だが、実際のところ、「土」なくしてわれわれは存在することはできないわけで、社会契約のみを原理とするところには、無理が生じる可能性は否定できないわけだ。 この社会契約が「土」から離れたところに共同体を作れるのか。そのときに何かが必要だとすれば、それは何か。 天才ルソーは、早くからそのことを見抜いていた。彼は、おそらくキリスト教を想定しつつ、 「市民の宗教」が必要だと喝破した。 しかし、キリストの<身体>(的なもの)は、はたして近代を支えきれるのだろうか。 ■憲法的なもの 形式的意味の憲法を戴く立憲主義というものが、ひとつの原理であることは間違いない。 これが、ある種の「世界的」原理であって、他国のものをお互いに参照しながら、互いに働きかけあいながら発展してきているというところは、その近代国家の成立との類似性を見ても興味深い。 憲法典が、(多くの勘違いがあるように)本来的意義をその文面解釈に見出すならば、その原理は「土」とはかけ離れたものとなるだろう。 さて、しかし、「土」を生かしつつある「憲法典」とはいかなるものか。俺にはこれがよくわからない。 安易な発想で答えれば、長谷部恭男的な「公私区分論」に行き着くだろう。 いずれにしても、「憲法」が「世界的」原理であれば、少なくとも「憲法」自体においては、「土」とは離れたものと言いうるかもしれない(右派が「郷土愛」などと言いたがるのは決して偶然なんかではない)。 ■「土」 しかし、「土」とは何か。 「土」とは<土>と離れたものではないのか。 そうであればこそ、キリスト教的なもの=社会契約的なもの=憲法的なものが力を得たのではなかったか。 「愛」に、アガペーとフィレオーとエロースという階層が生じたのもこの「近代」なのかもしれない。 しかし、それを転倒させようとする志向自体が、ひとつの近代的なものではないか。 「愛」が「権力(暴力)」であることは、指摘してきたことだが、ではそこに「恋」を対置すれば事足りるのか、それはひとつの近代的態度ではないか(しかしこれはよくわからんので、はじめて三島由紀夫を真剣に読んでみようかと思う)。 いずれにしても、今考えるべきは、「キリストの<身体>的なもの」は何か、あるいは、「土」と「土から離れたもの」との調和原理は何か、のどちらかだろう(政治学者は前者に、憲法学者は後者に別れがちな気もするな)。 時に「憎悪」によってしか、世界に結び付けない、この切り離された小さき者たちに残されているのは、いかなる希望だろうか。 信仰よりも愛が優れている、という言葉は、俺には、「希望」よりも「権力」が政治をつくるという風に読めなくもない。 権力は必要だろう。ただ、だからこそ、こうしたことを考えないといけないのかもしれないように思うんだよな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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どーも。ご無沙汰です。貴記事に刺激を受けて、私も書いてみました。
禁欲的プロテスタンティズムは、共同体内-外の区別を破砕し、家族内-外、つまり、「身内の論理」をも無くしていきました。これが、近代において、「個-人」が共同体から析出されてくる、という意味でもあったわけです。そして、その諸個人は、共同体の代わりに、自らを守るため、近代主権国家を「選択的」、つまり自らの意志によって構築する道(=社会契約)を選ばざるを得なくなる、ということになります。 ま、これは、Weberの描いた初期近代のシナリオではありますが。 (2007.11.03 06:44:00)
renqingさん
こちらこそご無沙汰しております。 >どーも。ご無沙汰です。貴記事に刺激を受けて、私も書いてみました。 > >禁欲的プロテスタンティズムは、共同体内-外の区別を破砕し、家族内-外、つまり、「身内の論理」をも無くしていきました。これが、近代において、「個-人」が共同体から析出されてくる、という意味でもあったわけです。そして、その諸個人は、共同体の代わりに、自らを守るため、近代主権国家を「選択的」、つまり自らの意志によって構築する道(=社会契約)を選ばざるを得なくなる、ということになります。 >ま、これは、Weberの描いた初期近代のシナリオではありますが。 大変面白く読ませていただきました。 この問題は、リベラル―コミュニタリアン論争に至るまで、ずっと形を変えつつも論じられていることだと思います。 しかし、なかなか難しいのは、「選択」を実際に行う「手続き」はいかなるものなのか、という問題、また、「土」から離れるということを「土」から離れたところに論理立てる(「身内」の論理を「外部(他者)」の論理で打ち壊す)ということの正当性の問題等ではないでしょうか。 このあたり、ちょっとユダヤ教的なものに関係しそうなのかな、と最近ちょっと考えています。 (2007.11.03 21:15:14)
community の崩壊は、「ホッブズ的自然状態」を現出させます。このとき、この人間集団を危機から救済するのが、正当な武力(=暴力)行使を独占する近代主権国家です。ピューリタン革命後のクロムウェル護国卿によるプロテクター政権がそうですし、フランス革命後の公安委員会独裁もそうです。
そして、この近代主権国家の枠組みを歴史的遺産として継受しつつ、liberal democracy は一世紀を費やして、主権国家のliberalization を図ってきました。 ですから、UKやフランス共和国の liberal democracy は、ちっとも voluntary でも、spontaneous でもありません。それらは、その国民達が悪戦苦闘しながら、やっとこさっとこ historical に形成してきたものです。 したがって、社会契約の理論は、positive theory ではなく、normative theory であり、出来上がった主権国家の批判理論として、そのliberalization 過程において実際「役に立った」訳です。 その地点から見直せば、明治軍事独裁政権の問題点は、その独裁性にあるわけではなく、「近代主権国家」を創出し損なったことにあることになります。 (2007.11.04 02:59:56)
renqingさん
>それらは、その国民達が悪戦苦闘しながら、やっとこさっとこ historical に形成してきたものです。 > したがって、社会契約の理論は、positive theory ではなく、normative theory であり、出来上がった主権国家の批判理論として、そのliberalization 過程において実際「役に立った」訳です。 全く同感です。そういう意味で、私も社会契約主義者だと自認しております。 しかしながら、近代初頭に残されていた何かが、いまや消えつつあるのではないか。normative theory内部には存在し得ない「暗黙の前提(「土」)」が今忘れられつつあるのではないか。ここが私の問題意識であります。 > その地点から見直せば、明治軍事独裁政権の問題点は、その独裁性にあるわけではなく、「近代主権国家」を創出し損なったことにあることになります。 なるほど、この国が明治期においてもなおpre-modernであったことは間違いなさそうですが、historical generationであるなら、この「革命」は続けなければならないのでしょう。 しかし、ここも無理やりに私の問題関心に引き付ければ、果たして社会契約はすべての国において本当にhistorical generationとして当てはまり得るのか、ということがあります。 むしろ、それが「革命」として続けるものであるなら、spontaneousな構想力が必要ではないか。 まあ、これは見る方向の違いの気もしますが。私は「革命家」として、ちょっと気になるわけです。そして、「革命家」として、社会契約の射程を知っておきたい。届かないところはどこなのか。今回のエントリはそういう自問でございました。 (2007.11.05 16:26:15) |