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カテゴリ:忘れられない人々
小学校5年のときに、父が横が15センチ、縦が5センチくらいのトランジスターラジオを買ってきた。父は、それでNHKの浪花節とかを聴いていたようだが、実際には私が一番使っていたようだ。
ビートルズが日本でもブレイクした頃で、よく洋物歌番組を聴いていた。中学になると深夜放送の全盛期を迎えようとしていたラジオ局がこぞって新しい番組をスタートさせた。愛川欣也の、「松葉でチョン ♪」なんていう語りが新鮮に聞こえた頃の話だ。 「山田、きみも森繁のラジオ聴いていたのか。今度、公開放送があるんで申し込んだら当たったよ。一緒に行かないか。」 中学2年のとき、私は文化放送で「こんばんは 森繁久弥です」と始まる番組を聴いていた。その公開放送に山田と行くことになった。悲しい経験を語り、それでも頑張っていこう、というのがこの番組の趣旨で、「友よ、明日泣け」という言葉がメインテーマだった。 1967年2月10日にこの公開放送があった。私の半分くらいしか上背のない山田と二人で行ったのだが、あいにく当日は雪だった。長靴はいて、14歳の珍道中となった。会場に入ると、私たちが恐らく最年少だと思えるくらい大人の人たちで埋まっていた。少なくとも、小さい山田はそう見えた。私は、180センチあったが顔は可愛い童顔。自分でいってりゃ世話はないが。 内容は殆ど覚えていないが、アメリカ軍の兵士と日本人の間に生まれた子供たち、といっても大人だが、そういう方たちが出てお話してくれた。一番印象に残っているのは、隣の3人組のオネエサン達を除くと、まだ青年だったマイク・真木が新曲の「バラが咲いた」を歌ってくれたことだ。私たちの客席の横を歩いて歌っていた。オネエサン達もうっとりしていた。いい歌だった。今も歌っている。 本当の幸せにしみじみとむせび泣きたいのなら 今日の不幸せには笑って耐えようではないか 友よ、明日泣け ! 番組で、いつも森繁さんが力強く発信していた言葉が、この会でも大きく力強く伝わってきた。43年経って、隣のオネエサン達の顔はまったく覚えていないが、この言葉だけは今もしっかりと覚えている。森繁さんも昨年亡くなられたが、私の中では、あの会場で笑顔で励ますその姿のままだ。 毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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