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カテゴリ:ドラマ系の感想
「佐殿の腹」
内容 源頼朝(大泉洋)の処断に動く伊東祐親(浅野和之)は、 頼朝をかばう義時(小栗旬)の父・時政(坂東彌十郎)兄・宗時(片岡愛之助) と対立する。 だがそこに、対立を知った相模の大庭景親(國村隼)が現れ。。。 そのころ、姉・政子(小池栄子)の協力で、頼朝を連れ、追っ手から逃げる義時。 そこに、富士の裾野あたりに来たとき、思わぬ人物が現れ。。。 敬称略 作、三谷幸喜さん 演出、吉田照幸さん これ。。。。気のせいか。。。開始10分で終わってるんじゃ? いろいろやっているけど。 ほぼ“ただごとドラマ”状態で、ホームドラマになっているし(笑) 確かに、人間関係の描写は、“ドラマ”の本質なので。 間違っていることをやっているとは思いませんが。 途中で感じてしまったのである。 “これ、必要性、あるのかな??”って。 設定は理解しているし。 歴史も理解している。 もちろん、作風も理解している。 でもなぁ。。。。。 興味を抱くかどうかと言うのは、 “ドラマ”を見る上で、もの凄く大切。 脚本、演出、俳優。。。。描いている時代、題材。。。等々。 何か引っかかる部分があれば、興味を抱くモノだ。 しかし、それは、所詮、“とっかかり”でしかないのだ。 後は、見て楽しめたかどうか。。。ただ、それだけのことなのである。 もちろん、それらは、人それぞれ。 同じ興味を抱いていても、楽しめるかどうかは、別の話。 個人的には、それなりに楽しめているのだけど。 完全に、“個人的なフィルター”が掛かっていますからね。 ふと、冷静になると。 どう見ても、万人受け。。。しないよね。。。。。 そんな印象が強い。 さて。今回の感想である。。 今回を見ていて、感じたのは、 前回より“説明”が少なくなり、“ドラマ”らしくなってきた。 そんな印象なのであるが。 正直、この印象でさえ、かなり好意的に見た印象だ。 冷静になって。。。中立的に見ると。 前回と今回、変わっていないことが2点ある。 1つは、少なくなったとはいえ、“説明”が多いことだ。 登場人物の紹介、設定の説明など。。。必要なのは認めるが。 ここまで、“現代劇”風に描いているならば、 “言葉”“単語”だけを注意すれば良いのでは無いのだろうか?? “言葉遣い”に関しては、ある程度、無視。 例えば、今回の途中で。。。“朝湯”という単語が出てきた。 これなんて。。。“湯に入っている”だけで十分なのだ。 もちろん、現代の“湯に入っている”のイメージとはかけ離れているが。 無理に、“聞き慣れない単語”を並べるより、 “聞き慣れた単語”を使い、簡略化すべきでしょう。 他にも、たくさん存在する。 良い例が。。。相模だ、、伊東だ。。。北条だ。。。平家、源氏。 こんなの1つとっても。“敵”“味方”という単語で、 話の流れで、簡略化して良いと思うのである。 もちろん。。。ほんとは、間違っているとは思いますが。 でも、こういう“気配り”は、本当に大切だと思います。 ま。。。。手遅れだろうけどね。。。 で、変わっていないこと。。。2点目。 それはね。描いている事象が多すぎるコトなのだ。 シンプルに考えれば、 今回のエピソードは、頼朝を中心にして、前妻、後妻、主人公。 そんな四角関係の表現だけだ。 しかし、話の流れを作ったりするために、 登場人物が、次々と...登場する。 4人以外の描写も、たくさんアリ。 分かりにくくしてしまっているのである。 個人的には、許容範囲だろうけど。 一般的に馴染みの無い人物を、並べたところで、ワケが分からなくなるだけ。 それこそ、父母、兄妹さえ、必要ないと思いますよ。 もう一度書くが。手遅れなのは分かっている。 どう見ても、修正はしないし、出来ないだろう。 補足の可能性も、皆無に近いだろうし。 でも、今作を見ていて、 実は、あるドラマが、脳裏をよぎったのだ。 《渡る世間は鬼ばかり》である。 明らかに登場人物が多く、明らかに描いていることが多い。 それでも、セリフなどが、クドくなっても、 分かりやすく表現しているから、見ていて楽しいのだ。 ま。。。好みはあるけどね。 この手法は、作者の手法でアリ、矜持だったのである。 今作。。。正直。。。。次々と脱落者が出るんじゃ無いだろうか? 個人的には、最後まで見ますが。 他の番組を使っての、てこ入れも、難しそうだし。 それでも、 もう少し、なんらかの工夫はすべきだと思いますよ。 ってか。。。現状では、伝わるモノも伝わらないよね....絶対に。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年01月16日 18時48分16秒
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