年を取って能力が衰えてきたら、
欲張りすぎず、
生活を縮めることを考える。
生活設計・・リタイアメントプランニング。
日経電子版より
気になった記事を紹介します。
「国をあてにし過ぎず、貯蓄は「義務」」
2012/9/5 7:00
曽野綾子さん
※養老孟司さんと並んで
すごく興味深い人です。
老後設計について語る
曽野ワールドをどうぞ。
--著書『老いの才覚』が
104万部のミリオンセラーとなりました。
「貧しさを知らないから
豊かさが分からない老人が増えてきた」
「年をうまくとる作業を、
年をとってから始めたのでは遅い」
といった辛口のメッセージが
女性を中心に支持されています。
どうやったらベストセラーが
書けますかとよく聞かれますが、
全くの運次第ですね。
ただこのテーマに関心を持つ人が
多いということはいえるのでしょうね。
ことに
東日本大震災のようなことがあると、
行政に助けてもらおうとしても、
とても手がまわらない。
人間が自分を助けるのは、
大方は運ですけれど、
自分で才覚を働かして、
生活を切り開いていくのだ
という決意はやはりいるでしょうね。
今の世の中は
何にでもマニュアルがありますが、
私が子供の頃に母親に厳しく
いわれたのは、何事についても、
自分の頭を働かせて判断
しなさいということでした。
みんながいうように
自分独自の人生というものが貴重なら、
それを作り上げるのは
自分だけしかいない。
自分で試行錯誤して、
親も世間も教え切れないことを
自分で解決する。
それが才覚ということだと思います。
--日本で今進んでいる
超高齢化社会は、
まさしく前例という
マニュアルがない世界です。
たくさんの人間が
こんなに長く生きるようになったのは
歴史上なかったこと。
日本人の平均寿命は
今は80代ですが、
そのうちに100歳を超す老人も
珍しくなくなるでしょうね。
ありがたいのは、今の日本では
さまざまなチョイスが許されている
ことです。
例えば私の友達は、
福島の原子力発電所に
比較的近い街に住んでいるのですが、
原発から放射性物質が
流れ出したかもしれないといわれたとき、
「自分はここにとどまる」
といっていました。
自分の人生は自分で決める
ということなんですね。
腹をくくって端然と
生き方を決めればいいんです。
■老後に孤独に暮らせるのは、
お金持ちの国だからこそ
どんなふうにおカネを使うか、
誰とどこに住むのか、
どんなお葬式をして
どこのお墓に入るか......。
今は個人の希望を
静かに通させてもらえる時代
だと思います。
国が極度に貧しかったり、
社会主義国家だったり、
戦争中だとしたら、
こうはいきません。
老後の楽しみ方も
みなさんいろんな趣味が
おありになって、本当にさまざま。
エベレスト登山におカネをかける方や
着物道楽の方もいるでしょう。
私の場合は、
50歳過ぎから土いじりが趣味です。
自分の畑で作った
採りたての菜っ葉なら
手抜き料理でもすごくおいしくて、
それだけでちょっと幸せなの。
実にありがたい時代だなと感じます。
--それでも老後が不安という人は
多いです。
最近、ある人と話していて
「孤独死する人はかわいそう」
と言うから、
「アフリカの本当に貧しい国では
孤独死なんてありえませんよ」
と私はいいました。
そういった国では
家の広さはわずか2畳ほど。
家の入り口にドアなどなくて
ボロ布が下がっているだけですから、
生死はもちろん、
今何をしているかもすべて
周囲に筒抜けなのです。
孤独に暮らせるというのは
お金持ちの国のぜいたくなんですよ。
だから老後に
孤独に暮らしている人がみな
気の毒だとは私には思えません。
恐らく人とつきあうのが
わずらわしくてそうしている
人もいるでしょう。
それも人生のひとつのチョイスとして
あっていいんじゃないでしょうか。
--そうした実感は、曽野さんが
56歳のときに立ち上げられた、
発展途上国で働く
日本人宣教者を援助するNGO
(民間活動団体)
「海外邦人宣教者活動援助後援会」
などの活動で、たびたび
世界の最貧国を訪れた中で
積み上げたものだそうですね。
ええ、
ですから私は普通の人と比べて
基準がちょっとおかしなところが
あるのです。
毎日
「風が吹き込まない場所で
乾いた寝床に寝られるのは、
なんてありがたいことだろう」
とつくづく感じますし、
思わず口に出してしまいます。
雨降りの日などはことさらです。
うちの人たちは
「またバカなことをいってる」
って誰も返事しませんけれど(笑)。
いつでも飲み水があり、
電気が供給され、
雨にぬれずに
一応あたたかい部屋で
暮らせる家があることは
大変なぜいたくなのです。
実際、
それをかなえられない人が
常に世界にはたくさんいますから。
--『老いの才覚』の中では、
年を取って能力が衰えてきたら、
欲張りすぎず、
生活を縮めることを考えることも
大切と書かれています。
家ならば
自分で管理できる面積、
服は着られる範囲のもの。
中年以降はなおさら、
自分の体力と必要に応じて
徐々に規模を小さくしていくのが
利口のように思います。
私は若い頃から、
余計なものはいらないと考える方でした。
イタリアの格言で
「人間は一度に2枚の服は着られない」
というのがあるんです。
さすがに毎日同じ服
というわけにもいかないから、
少しは替えたいんですけれどね。
--年を取ったら余計に望まない、
あきらめることも大事?
いいえ、
私はそれがあきらめることだ
なんて思いません。
年齢を重ねるごとに、
どうしても必要なもの、
したいことだけが残っていく
ということです。
■年を取っても国をあてにし過ぎず、
貯蓄は「義務」
年を取っても、
自分を鍛え続けることと、
耐える力をつけること、
それから国家をあてにし過ぎず、
自分で生きられるよう、
多少の預貯金を持つこと
などは年を取った人の義務
だと思いますね。
私は自分の母と
主人の両親たちとずっと一緒に生活して、
老いていく姿も見てきました。
老後の良さも問題点も、
母たちを通して知りましたが、
感心したのは
あの世代は節約して上手に暮らす
術を知っていたことです。
例えば
戦後の非常に貧しい時代、
私の母は家の掃除ばかりしてました。
掃除はタダでできるからだ
といっていましたよ(笑)。
そういう気質を受け継いでいるのか、
私も庭や畑の草取りが大好きです。
身の回りを
すがすがしくしておくことは
実に気持ちがいいですから。
おカネが一切かからない
"道楽"ですね。
--長寿は
本来喜ばしいことのはずなのに、
経済的には
「長生きリスク」
という言葉が使われることがあります。
何歳まで生きるか分からないから、
どれだけ経済的な備えをすべきか
分からない。
私は
高齢者といえども働くべきだし、
働かせることで経済的効果を生む
政策があっていいと思います。
80歳でも90歳でもできる
仕事はあるでしょうし、
また、作ってあげたらいい。
老人ホームで
お遊戯させるなんていうのはやめて、
老人を働かせること。
たとえ1カ月に3000円でも
収入を得ることができるように
したらどうでしょう。
その中には、かつては社長さんで
月収が500万円あった
というような方もいるかもしれません。
でも、
だからみじめだと思う必要は
全くないでしょう。
むしろ、今になって
おカネの本当の使い方がわかった
とお思いになるのではないでしょうか。
若い頃に比べて、
役に立たなくなれば、
時給が安くなるのは当然ですよ。
それでいいと
なぜ思わないんでしょう。
それが分からないような
バカな年寄りにならない方がいいですね。
--定年延長やリタイア後の再就職
に加えて、公的年金の支給開始年齢を
引き上げるべきだという議論もあります。
それは
人それぞれでいいんじゃないですか。
一律に制度化する必要はないと思います。
■80歳でも90歳でも
働きたくないものは食うべからず
友人の上坂冬子なんか
面白い個性で、
「私は年金を早くもらうから!」
っていってました(笑)。
支給開始を後ろ倒しにした方が
総額でおトクと考える人もいれば、
何歳まで生きるか分からないし、
国家なんか信じられないから
早くもらうという人も
いていいじゃないですか。
ただし、聖書にも
「働きたくないものは食べてはいけない」
と書いてあるんです。
「働けない」人じゃないですよ。
働きたくない人、つまり怠け者は
食べさせなくていいということです。
--「定年後は自分のしたいこと
だけをして豊かな余生を過ごす」
などという時代は終わったということですね。
では、本当の「大人のお金持ち」
とはどんな人でしょうか。
家族に許される範囲で、
好きなことに責任をもって
おカネを使える人だと思います。
--曽野さんご自身も、
そうしたおカネの使い方の
経験はありますか?
私は52歳のとき、35日間かけて
サハラ砂漠を横断しました。
特殊仕様の四駆自動車を
2台購入するなど、
ちょっとおカネがかかりましたが、
どうしても行きたいと言ったら
家族は誰も反対しませんでした。
8600kmを、
仲間と交代で1日6時間、
自分で車を運転して旅をしたのですよ。
360度砂だらけの世界です。
日本の超過密社会のまさに真逆で、
何もない、誰も守ってくれない、
むき出しの世界がそこにありました。
道に迷ったら
早めにに引き返さないと
命の危険と直結しますから、
みなで話し合って物事を決める
民主主義の論理など通用しない。
それを実際に体験したことで、
アラブ問題や宗教に対する理解が
深まりました。
聖書には「喜べ」という意味の
ギリシア語「カイレー!」という言葉が
羅列されている箇所があります。
命令系なのは、
苦しみや不安があるときも
元気にふるまいなさい
という意味だからです。
聖書の教えに
「汝(なんじ)の敵を愛しなさい」
という言葉があるでしょう。
それと同じことなのです。
敵を本当に愛せるはずがない、
本当に愛さなくてもいい。
それでも
愛しているような態度を取りなさい、
内面と外面を使い分けなさい
と言っているのです。
心に不安があっても
背筋を伸ばして「喜べ!」。
それが人生に対する命令なのです。
(聞き手は安原ゆかり)
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最終更新日
2012/09/06 11:55:23 AM
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