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皇子がこの世に降臨したとき、その産声は
オギャア~~~!!
に続いて、
Waaaaaaa~~!! ( 英語 ) ケオケオ~~ ( タイ語 ) オーアー オーアー ( スリランカ ) ウーアー ウーアー ( 台湾 )
など、6ケ国語以上だったそうです。
乳母は皇子を神童と呼び、その語学が増すごとに震度7・8・9・10と、 揺さぶりながらあやしたと。 やがて、18年間の東北単身赴任を通じ東北弁がこれに加わり、も~~鬼に金棒な マルチリンガルな男に、育ったのでした。
この卓越した語学力を生かし、海外雄飛の夢を幼い頃から持っていたので、商社勤務 を希望。100メートル競走と面接委員に感動の涙をもたらした歌唱力によって、ある 商社に入社する事が出来たことは、みなさまがご存知の通り。
配属は、輸出課であったこともあり、幾多の海外転勤の話がありました。しかし、 私の夢はあくまで、アメリカそれもウェストコースト( ロスアンジェルスまたは サンフランシスコ支店 )駐在でしたので、それ以外の赴任地は総て断ったのです。
入社時に、誓約書を会社に対して必ず入れるわけで、かような行為は誓約違反と なるわけです。常日頃から反抗的な態度に加え、上司からの転勤命令を拒否と なれば、上層部が感情を害した事は当然のことでした。
ブランデンブルク門近くのベルリンの壁に登る東西ベルリン市民 (1989年11月10日)
ところが、入社して20年たった頃でしょうか、突然オーストリアのウイーン駐在 事務所への転勤命令が出たのです。
1989年ベルリンの壁が破壊されると、近隣の東欧諸国は雪崩をうって民主化に走り、 かっての共産圏体制は崩壊。商社は時代の流れ、経済の先行きを読み、先行投資を行う のが企業戦略。民主化の流れの中で、必ずや商売の種があるはずと考えたのでした。
全社選抜で 3人の派遣が決まり、鉄鋼本部そして化学品本部から一人、そして資材 本部代表として私が選考されたのでした。ひねくれ者で反抗児である小生が、なぜ全社 代表として選ばれたのか、ブロ友さんの総ての方が疑問に、思っているのではないで しょうか?
実は、当時ウイーンフィルでは、マーラーやブルックナーを主とする現代派と モツアルートやヴェートベーンなどの古典派と、楽団内は二分され大きな対立の中に ありました。指揮者は、楽団の総意によって決まりますので、オーストリア政府も絡み 中立的な指揮者を選び、なんとかこの内部紛争を治めようとしていたのです。
私は、ハーバード大学に通いながら、アンドリュース大学音楽学部で指揮学を学び、 その指揮法はカルロス・クライバー 二世かと、当時音楽界で話題を呼んだものです。 弊社もそのような私の経歴は知っており、私をウイーン・フィルの指揮者に推薦し、 オーストリア政府に恩を売ることによって、東欧各国の情報を見返りとして要求したの でした。
ウイーンは、< 東欧の臍 >と呼ばれていたように、地理的にも東欧の中心部に 位置し、何処の国の首都にもウイーンからは飛行機にて、1時間程度の距離にあります。 従って、かっての共産圏の情報はウイーンに集中しており、各国のスパイ合戦もここで 広く行われていたのです。
予てからの希望の赴任地、アメリカ西海岸ではありません。 しかし、己の能力を生かせる場所として、ウイーン事務所駐在員兼ウイーン・フィルの 客員指揮者として、皇子は音楽の都ウイーンへと赴任する事に、なったのでありまする。
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