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カテゴリ:カテゴリ未分類
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シンクロのデユエットと団体で、日本チームを共に銅メダルに導いた、井村雅代 ヘッドコーチ。 彼女のインタービュー、
( 選手達にはしんどい練習を強いたが、 これが私の責任のとりかた・・) という言葉が印象的でしたね。
長らく低迷していた日本を立て直し、昨年の7月26日水泳世界選手権で、2007年 メルボルン以来4大会8年ぶりに、乾と三井のペアーを銅メダル表彰台に 登らせた井村の記事が、2015年7月28日の日刊スポーツ紙面に掲載されていたので、 これを転載します。
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五輪計14個のメダルへ導いた井村HCは、長く低迷した日本をどう立て直したのか? その極意に迫った。
昨年4月、井村HCは都内の会議室に選手を集めた。「毎回の練習を厳しく、自分を 追い詰め、無理をして、120%の力を出して練習してほしい。しんどいとは思うが」。 地獄のスパルタ指導の始まりだった。
(1)軍隊式練習 1月から今大会まで約200日の間で合宿は143日。1日の平均練習 時間は12時間以上。朝7時30分から午後1時30分、同2時30分から同6時30分、 同8時から同10時30分。その後は個別でケアなどを行う。井村HCは「練習以外に 自らを支えるものはない。16日間の合宿なら休みは1日」。その休日も休めない。 与えられた課題を克服するため午前中は陸トレ、水中での自主練習が続く。
(2)生活指導 ある選手の部屋が整理整頓できていなかった。「シンクロのチームは ビシッと並ぶ。部屋がぐちゃぐちゃなのはあり得ないやろ。あんたらは水着もきれいで、 きちんと化粧して本番に臨むでしょう」。
早朝、睡眠不足と疲労から表情の暗い選手がいた。「シンクロは笑顔でやるもの。空元気で 隠せ。弱そうな顔をしたら相手が有利になる。寒くても寒そうな顔をするな」。もちろん 涙も禁止。「泣いても疲れるだけで何の解決にもならん。親が死んだとき以外はなし」。
(3)なれ合い排除 今の選手は優しく、調和の取れた選手が多い。だが井村HCには 物足りない。「昔の選手は失敗した人がいたら『いいかげんにしてよ』と怒った。 今の子は言わない。怒ることで、自分は失敗できないとの、責任が生まれる。失敗しない 人間はいない。偉そうに言って失敗できないと思うからこそ、人間は無理して頑張る」。
日本に復帰したとき、選手たちを見て「ゆるキャラの極致。みんなと一緒に いることが大好きで、ちょっと頑張ると、自分は頑張ってるのにと。 豊かで平和な日本の若者の象徴だった」という。メダルを奪還するため 「精神的に追い込む」と、いつも以上の指導を自らに課してきた。
体作りから始め、平均5%の体脂肪率減に成功。厳しい練習に、3月には12人の中で 2人が離脱。それでも手は緩めない。「あなたたちはメダルなしに慣れているかもしれない けど、わたしはプライドに懸けても許せない」と言った。
現代は硬軟織り交ぜた指導が主流で、スパルタ式は時代に逆行している。日本水連内にも 批判の声は根強いが、それでも自己流を崩さない。「追い詰める指導者は少なくないが、 時には緩ませるでしょう。わたしは行きっぱなしだから、きついとは思う」。 選手の足は筋肉質で、鉛筆の芯のように細くなった。ロシアのようなスピードと高さの ある足技も可能となった。
お家芸復活の第1歩となるメダルを乾、三井からかけてもらった。「これだけやった もんな。良かった」。鬼の目にも光るものがあった。ただ感慨に浸ることはない。 「国、言葉は違っても、自分の教えている選手に、目標のところに連れて ってあげる。コーチとしての達成感は一緒」。強烈なプライドがそこにあった。 【田口潤】
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並大抵の努力では、世界の頂点に挑めない。 過去の実績・経験からきた前述の井村の考えと自負は、ともすれば日本水連や外部 から批判にさらされる事が多かったのです。しかし、頑として自己流を通し続けた 結果がリオの銅メダルであり、( これが私の責任のとりかた )と 彼女に言わしめたのでした。
井村の日本シンクロ再建の話で、思い出したのが皇子の福島支店再建。 なにも、自慢話をするつもりはありませんが、井村の考え方と重なる部分もあるので、 この機会に記事として公開したいと思います。
上司の陰謀によって、盛岡支店に左遷された皇子。 失意の中で赴任しましたが、( いつか見ておれ!! )と心の中では、かような人事 を行った本社に対する憤りに、満ち溢れたものでした。
場所では、所属本部の商品のみならず、総ての本部のものを取り扱わなければ ならず、その新鮮さで水を得た魚のように、皇子は自由奔放に県内を飛び回ったの でした。書くことが大好きなこともあり、昔ながらの業務月報など無視し、 ( みちのく便り )と称するショート・エッセイを、毎月発信。
一方、福島支店は支店長二代にわたる赤字経営で、社内で場所の存続を問う論議が なされていました。東北ブロックの経営責任は、仙台の東北支社長にあり、 彼としても傘下附属場所維持策の策定は、急務だったのでした。
盛岡支店に、風変わりだけど数字を残す奴がいる、こいつに福島支店の再建を託して みようかと考えたのでしょう。支店長人事は本社役員人事の範疇で、その場所の 基幹取引の本部から推薦され、役員会で承認されるのが、弊社の手続きでした。
しかし、支社長はかような慣例をやぶり、支社長推薦として皇子を福島支店長と 本社役員会に付議したのでした。もし、皇子で支店再建出来なければ福島支店を 閉鎖する、との念書を入れて・・
かような裏話を聞かされては、支社長のメンツもかかっているわけで、皇子も 必死の覚悟で福島支店に乗り込んだのでした。
着任しわかったことは、赤字にもかかわらず過去の支店長は、何も再建策を打って いないこと。そして、現地採用の古参女子社員、いわゆる< お局様 >が 全てを仕切っていたのでした。過去の支店長にしてみれば、2~3年で交代しますから その間、お局様と波風をたたせない方が無難との、考えがあったのでしょうね。
取引先の見直し、新規取引開拓、ポートフォリオの入れ替え、そして仕事に対する 意識改革など、昔ながらの自分のやり方を無視する皇子のやり方は、お局様の機嫌を 損なうこととなり、彼女との決定的な対立となったのでした。
彼女は東北支社長へ、ないことないこと報告しましたが、勿論お局さまのクレームを 彼が取り上げることはありませんでした。 皇子も、自己のやり方を決して曲げることはせず、 ( 私はこの店が再建出来なくても、本社に戻る場所があります。勿論、罰点はつき ますが・・・でも、この場所がなくなるということは、あなた達の働き場所が なくなるということなのですよ。) と、叱咤激励したのでした。
長い会社生活の中で、この時期ほど寝食を忘れ、仕事に打ち込んだことはありません。 でも、必死の努力は決して裏切らないのです。 着任後 1年で福島支店は黒字化し、その年の国内場所表彰を受賞したのでした。
報奨金は 10万円と、雀の涙の金額。 支店全員で分けたので、手元に残ったのはしょんぼりのしょんぼり。
でも赤字場所を再建黒字化し、存続の結論を本社にださせた、これが私の場所長 としての責任の取り方、だったのでした。
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