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カテゴリ:1975年頃のディスコのお話
1975年夏、二十歳になったばかりの委員長は自堕落な生活に明け暮れる毎日、バイトで稼いだ少しばかりの金も2回の新島旅行とディスコ通いですっかり使い果たしてしまい、それでも未だ懲りずに無軌道な道楽道を突っ走っていたのでした。
もうこの頃は家にも戻らず、夜な夜なケイゾーのサバンナで寝るというようなフーテン生活を送っておりました。とはいうものの無一文ではゴハンも食べれず、かといってまだ働く気にもならず、思いついた究極の手段が「居候」でした。 その頃、中学時代の同級生が吉祥寺商店街の八百屋で働いており、ケイゾーの家からも近いしこりゃ都合がいいやってなもんで、旧友“てっちゃん”の住む三鷹のアパートへ転がり込んだのでした。 てっちゃんは、通称コマバカ、いや失礼、駒場学園の出身で、高校時代は共に「仁義なき戦い」を見て興奮したバカ友の一人でもありました。 てっちゃんは、高校時代、下高井戸に下宿していたので、委員長は当時の彼女とここによく入り浸っては、同棲ごっこなどやらかしたりしておりました。 そんな仲の二人でしたから、委員長が訪ねていくと、そりゃあもう喜んでくれて、なんなら一緒に八百屋で働けなぞとも言ってくれて、本当に良いヤツでした。 このてっちゃんも委員長と同じく母子家庭の育ちで、中卒と同時に町田の山崎団地(そうです、あの有名な不良の巣窟となった)に引越し、委員長との縁も切れかかったのですが、弟が兄貴以上にしっかりと不良の道に入ってしまい、仕方なく下宿生活、そして高卒で就職という典型的な不良少年の更生人生を歩んでいたのでした。(ほんとかよ) ということで、一人住まいの寂しさもあってか、委員長の居候を歓迎してくれ、そこは働いている者の強み、とにかくお金がありますから、食べることには事欠かず、挙句の果てはディスコなどへも連れてってくれるし、いっそここでずっと暮らしていこうかい、などと不埒な思いをめぐらす不届き者の委員長でした。 この頃の吉祥寺界隈は、オープンしたばかりのインディペンデントハウス(ここは時間制バイキングシステムという新しいタイプのディスコとして話題を呼びました)、バンド&DJのベルファン(ここはやたら不良が出入りして喧嘩が多かった)、老舗ディスコ城などがあり、三鷹市、小金井市、八王子市、立川市あたりの遊び人が出入りしておりました。 とはいうものの、今ほどの活況さはなく、こじんまりした繁華街ってな感じでした。 委員長は時々デカイ頭を買われて、てっちゃんと一緒に閉店後の八百屋の前で売れ残った果物や野菜を売って小遣いを稼いだりしました。 週に一度、親方(社長)の好意で当日の売れ残りを破格で分けてもらい、閉店後の店頭で売るっつーような力技、テキヤさんのような仕事をしたわけです。 まだアフロヘアが珍しい時代でしたから、おばちゃんとかには結構人気者になったりして、「キャー、これ地毛?触らせて」とか言われて、「そのかわりこのバナナ買ってよ、おねーさん」などと媚売って、それなりに売上もありました。 商店街の店じまいに合わせて八百屋の閉店が8時ですから、7時頃から店の片付けを手伝いながら商売の準備を始めて、閉店と同時にスタート、9時までの1時間が勝負でした。勤め帰りのOLや買い物に遅れてきた主婦などがお得意さんで、傷物の野菜や果物を叩き売る楽しさもまんざらではありませんでした。仕入れ代を超えればあとは全部自分たちの利益ですから、そりゃ売り方にも力が入ります。 まあ、こんな経験も後にDJやダンサーとなった時、ショーアップなどに生かされたわけですね。(そうかなぁ) 夜9時までに売り切って後片付けを済ませ、ディスコ衣装に着替えていざ出陣ってなもんで、稼いだ金はすぐにインディや城、ベルファンなどで浪費するという、江戸っ子気質丸出しの生活を楽しんだのでした。 ちょっとばかり金回りが良くなったという噂を聞きつけると、どこからかともなくバカ野郎達が集まってきます。ケイゾーはともかく、何故かビバヤングをクビになったフクシマやオオイケ幹候(この人もこの頃プー太郎してまして、その経緯もまた面白いので後でお話します)がくっついてきて、三鷹のひっそりとしたてっちゃんのアパートの暮らしは一転してドンちゃん騒ぎのアジトと化し、ご近所の皆様に大変ご迷惑をおかけ致しました。 当時の三鷹って、本当に閑静な町(と言うより田舎)でしたので、やたら目立ってしまったのは間違いありません。 今にして思えば、てっちゃんって本当に人格者と言うか良く出来た友達でした。 八百屋の朝は早いですから、朝7時には出勤です。もちろん1日働いて夜8時に帰宅します。疲れて帰宅すると部屋にはワケのわからない居候がグデグデしていて、メシなど勝手に自炊したり、ステレオでディスコサウンドをガンガン鳴らして踊りの練習、しまいにはアンパンなど喰い始めて、人の家を何だと思っているんだ(何とも思っていませんね)、などと怒りもせず、一緒になって騒いでくれたてっちゃんでした。 さすがに委員長もいよいよ責任を感じて、てっちゃんのアパートを出ることを決断したのです。(ならモット早く決断しろよ) 放蕩生活もここらが潮時です。 そろそろ仕事をしなくちゃなあ、と思い始めたのは委員長だけではなく、ケイゾーも車のローンやガソリン代をそういつまでも親に甘えるわけにもいきません。 まだ夏を残したままの8月、委員長は仕事を探して再び新宿に戻ってきました。 ケイゾーと委員長が仕事を探し始めると、一緒に働きたいなどと言ってフクシマが後をついて回るようになりました。 楽しい職場じゃなきゃイヤだってなわがまま野郎ですから、職探しにしてもどうも真剣さが見られません。 結局は新宿の知り合いのところへ行っちゃ、タダメシ、タダコーヒーなど頂いて、「どっか仕事ネェかなぁ」などと口で言ってるだけで、働く気などあるようには到底思えません。 知り合いだっていい迷惑です。 どうみたって、不良の仲間にしか見えないバカにウロウロされて、メシやコーヒーをたかられるのですからかないません。 このころフクシマは親に金を借りて新宿に近い初台にアパートを借りました。 結局、仕事を探すと言ってはこのアパートに燻って、グダグダするのがオチでした。 そんなある日、フクシマに誘われて「怪人二十面相」というスナックに行きました。 高校生の頃によく出入りしていた、いわゆる50’s、60’sのロックンロール系ファンの集まる店でした。 この店にフクシマの烏山工業高校の同級生(といっても中退仲間)が働いていて、バイトを探しているという話を聞き、二人揃って出張ったのでした。 行って見ると、なんとまたまた久我山のバカ、烏校(カラコウ)の同級生、新登場のヒデトが既に働いていたのでした。 何でも、フクシマと委員長が来る前の日に決まったということで、一足違いでチャンスを失った二人の前で、「ワリぃなぁ」と申し訳なさそうにする童顔のアフロ小僧、ヒデトでした。 仕方なくまたもやフクシマのアパートに戻ってみると、部屋にはオオイケ幹候とヨシワラの二人が、おねーちゃんを連れ込んでアンパンを喰っているではありませんか。 さすがに怒りを爆発させて狂犬小僧フクシマが暴れます。 年下の、しかも元部下のフクシマに「出てけよ、テメー」などと罵られるオオイケ幹候、完全にラリってしまってロレツも回りません。 一時はビバヤングの兄貴と慕われたこの人が、こんな情けない姿になってしまったのは歌舞伎町のノックアウト事件がきっかけでした。 このお話はまた明日。。。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年06月21日 17時00分36秒
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