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2004.01.02
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カテゴリ:コラム
もうかれこれ昭和40年代の話だが、当時心臓移植は、甲論乙駁の混沌の中にあった。
我が国心臓外科の権威・榊原仟医師は、当時の医師すべての意見と同じく、この手術に反対だった。ところがバーナード博士が成功して以来、ほかの医師たちが手の裏返して賛成に転じたから、自分も賛成に転じた。

榊原医師にもその機会が巡って来たら、執刀するだろう、医学の勝利は人類の勝利だからと自分も言うようになるだろう。と、ここまで彼は言ったものの、しかしと話をつけ加えた。このまま勝利し続けたら人類は滅亡するだろうと話し始め、ここでなぜか話し終えたのだ。まるで口をつぐんだようにである。

その矛盾は甚だしいなどという形容では不足なほど甚だしいものであったが、彼はなぜ人類を滅ぼすかは語らなかったという。以下、榊原医師の話の続きを察して書いた山本夏彦氏のコラムを引用する。ただし、文面は我が文になるべく変える。
心臓移植が出来るなら脳移植も出来るはずだ。それまで魂は心臓に宿っていると言われて来た。だが移植はしても、魂は心臓にないことがわかった。甲は依然甲のままであることにより、魂は脳みそにあることに決まった。

それを動かして脳移植すると、いよいよ甲は甲でなくなるから、再び反対する医者賛成する医者が議論して、甲論乙駁すること心臓移植の時と同様になろう。だがこれまたひとたび成功したら、命を惜しむのは人の常だし、執刀したがるのも医者の常だから、脳移植も皆々腕が鳴って、再び三たび執刀するようになるだろう。

甲の脳みそをつかの間去って、乙の脳みそに取り替えたら、甲はその脳、乙のものとなり、頭の中身は別人乙と変ずる。顔つきはもとのままだから、人と会っても「良かったですね、お元気になられて甲さん」などと、祝いの言葉を受けるだろう。

だが人の顔は脳みその反映であるとみる。傍証に過ぎぬが、かつて二枚目スターとして人気があった長谷川一夫は、晩年脳の病を得た。脳梗塞だったろうか。それでもNHKは彼を称える番組を企画して彼を招いて放映した。
そこに現われた彼は、往年の長谷川一夫の面影は残していたものの、目・鼻・唇各々の配列にしまりがなくなり、特に唇は妙に変形してそのまま復旧せぬ形を露呈して、もはや自然に老いた長谷川一夫とは、お世辞にも見えなかった。

病で脳の一部に不具合を生じた長谷川一夫でさえ、これだもの。まして甲の脳を去ってもはや乙の脳そのものまるごと入ったら、初めのうち甲の顔をしていた者の顔は、乙の脳みそに次第に支配され、日ごとに容貌変容すまいか。いや、するはずだ。
甲は妻と旧に変わらず夜ごと同衾(どうきん)するが、妻は同衾するたび、その変貌ぶりを見る。やがて甲は乙に似る。妻はほとんど乙と同衾することに耐えられるか。
これでは二人は姦通・不義してるみたいなものになる。甲とその妻は開闢(かいびゃく)以来、人類が経験したことのない、無気味な夫婦となる。

ここで想像を働かせてみる。医者が心臓移植の生体実験を犬でやったように、犬の、それもオス犬の脳みそを人の頭蓋に移植したあとを想像する。彼は外を歩いて電信柱を見ると、そばに寄って片足を上げはしないか。
「歌を忘れたカナリヤ」という歌があるが、カナリヤにオウムの脳を移したら、歌はもはや歌えぬかわりに、ものまねが上手になりはしまいか。カエルの脳を移されたネズミは、ケロヨンと叫びはしないか。

既に脳死が死と認められる時代である。ならばいずれ脳移植手術は必ず行なわれる。
人の魂は尊いという。だがここまでやって、尊かったはずの命は依然尊いままを維持するか。命を惜しんでここまでに至るのは幸に似てそうでなく、不幸に近いものになりはすまいか。
医者は、移植手術を「医は仁術なり」の言葉に照らして、良心の行為なりと言い張り続ける存在である。
科学者も同様である。我々が今親しんでいる文明の利器は、科学者が生み出したものである。だが科学者の増長が生み出したものは、忌まわしき核ミサイルである。我々のは生活の便利で、核ミサイルは別物とみえようが、両者は同じ物である。

テレビ・車・パソコンその他は段階をつけるなら末端であり、核ミサイルはその極にあるものだ。末端だけ享受していて、核だけは許すまじと誰しも言うだろうが、ひとたび作られた物は使われることを欲する。末端だけ認めておいて極は人類を滅ぼす悪魔の発明だと言う言葉に、説得力はない。現に言う者の顔には元気がない。ないと見破られるのは悔しいから、声を大きくする。それでもだめなら衆をたのんで更に大きくする。
だが声は合唱の如く大きくなっても、その言葉に力がないことには変わりがない。
甚だしきは、歌に歌って平和を唱えるふりをする歌歌いが現われる。既に現われて、自他共に良心の塊となったつもりに酔いしれている。

たかが歌手の分際でよくもまあ臆面もなく、そのようなことが出来たものだと私は思うが、歌手は思わない。己れを支持するおおぜいが背後にいるから、勇みたつこと容易なのである。
評論家の百万言はさほど力を持たないが、歌に託して聴かせると、メロディーと、感傷的な歌詞で、たちまちおおぜいを酔わせる力がある。誰やらが幸せになりましょうという意味の歌を、紅白歌合戦で歌っていたが、ばかばかしいから私はそっぽを向き、母に向かって「フィリピン行くのに、安ければ片道四万円弱でも行けるよ」などと、わざと話して無気味な歌を邪魔してやった。

過ぎたるは及ばざるが如しと、前にも言ったが、何度でも言う。
我らは増長を自ら止めることの出来ない動物である。核を阻止するためには、まず末端の車以下を我ら皆、手放さねばならぬと思うが、出来ない相談である。一度出来てしまったものは、それがなかった昔に戻すことは出来ないからだ。
だが、車を持たなかった時代、我らは不便だったか。バスや汽車があったから、用は足りたはずである。痛くもかゆくもなかったはずである。

人はあれほど大事にしていたはずの魂を心を、自ら進んで失いつつあり、いずれ必ず失うのだと私はみる。そして人類は滅びる。榊原医師がかつて人類は滅びると言って、絶句したのは、これらのことを転瞬に想像し、それでも手術は成功し続けて、それが仇(あだ)となることに気づき、自らの苦衷(くちゅう)を如何ともしがたく、忸怩たる思いを思ったからなのではないか。

参考文献:山本夏彦氏著「毒言独語」(中公文庫)p22「命ばかりはお助け下さい」





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最終更新日  2021.02.10 20:00:24
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