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カテゴリ:コラム
何度も言うが、世の中に貧困があるのはいいことだと思っている。このわずか一文に不快感を覚える人は相当、正義感の強い人である。正義感の強い人は常に正義の塊になる。そのよすがとするのはほとんどニュース報道である。だがニュース報道はおおぜいの気に入る口調を混ぜて言うから、既に迎合の趣を含む。その迎合は、おおぜいの実はしっとを承知しているからそう言っているに過ぎない。
人はしっとで生きている動物である。分際を知れなどと言うといやな顔をする。特に高度成長の末期を記憶に残す者ほど、この傾向は強い。納得させようとしても、火に油である。次には柳眉を逆立てる。確かにそうだろう。今時分際を知れなどと言うと、これにうなずける者は少なく、何を!!とむしろ食ってかかる者のほうが数で圧倒する。 私が貧困がある世の中はいい世の中だと書いたのは、みんな全員貧困でいいと言いたいのではない。私が言わずとも、この時勢下にあってなお、物持ちはいる。 ただ、以前の日記に書いたような分限者(ぶげんしゃ)がいなくなったから、本当の篤志家(とくしか)は激減した。今の金持ちのすべてとは言わないが、多くは財産独り占めの金持ちである。有り余る私利を世間に還元しようとする金持ちではない。だがそれは金持ちのせいではない。還元したくとも、己れの独り占めにせざるを得ぬ世の中だからだ。 財閥などが解体したからだ。詳しくは書けぬがそうなのだ。 前にも書いた通り、金持ちがいれば末端には乞食がいるというのが、世の理想なのである。これがあったから、世は治まって大過なかったのである。下町に住む者たちは山の手の豪華な屋敷とその住人にしっとしなかった。あれは別世界の存在だと既に承知していたから、しっとが生ずるはずがなかった。 もっとさかのぼると、江戸時代の長屋の住民は、今の障子戸が玄関だった。ガラス窓はない。映画に出てくる一心太助もそうだった。戸障子をガラリ開けると、すぐわずかな土間で、いきなり上がりがまちの向こうにはせいぜい二間の狭い部屋があり、その間を隔てるものはからかみである。 戸締りは戸障子のところに心張り棒をかうだけだった。水道なぞない。かめに満たした水を毎朝かえて、それで魚河岸から帰った太助はひしゃくに水をくんで飲むと人心地ついた。女房のお仲がお前さんお帰りと言って、今日はマグロだよ、おお、いいのが入(へえ)ったか? いいのがあるよ、じゃ、今夜はねぎま(マグロとねぎを混ぜた鍋料理)で一杯(いっぺえ)やるか、あいよとてきぱき会話して、まもなく夕飯である。 実は映画の「一心太助」でさえ時代考証の大きな誤りがあり、彼ら夫婦は、立派なというまでは行かぬものの、敷布団、掛け布団、武家にあるような高枕で寝ているが、間違いである。着の身着のままなのが事実である。冬は粗末な建てつけの造りのあちこちから、すきま風が容赦なく侵入し続けて寒いことこの上ない。それでも太助もお仲も普段着のそのままで寝た。 このような連中が、三千石の大身旗本の衣食住にしっとするいわれもなかった。封建主義の世を歴史で習って、悪しき時代だと言う者が今はほとんどだが、私はそうは思わない。私が乞食だったら、それが己れの分際だから、乞食を全うすることに専念していただろう。太助も間口一間(いっけん。一間は約180cm。畳の縦の長さ)の長屋に衣食し続けてお仲との所帯を全うしたはずだ。 長谷川如是閑翁は、戦後の民主主義より、封建時代のほうが良かったと何かに書いていた。これを巨細につづると、あと一テーマ、二テーマが混ざってしまうので書けないが、一つ挙げると警察制度である。冤罪(えんざい)に今昔ない。むしろ昔のほうが多かった。 今は冤罪が決まると、つかの間英雄の如きになる。何、冤罪を勝ち得た者は、かつてならず者の一人であった。別件で逮捕されてから、下手人であると推量されて、日夜取り調べに責められたあげく、根負けして白状し、次いで無実を獄中から訴えて、偽善家たちの応援を得て、無罪になっただけのことだ。 免田栄に至っては、ほとんどヒーローとなり、一世を風びした。だが彼も札付きの前科者だったことでは、ならず者の一人である。「週刊新潮」は「免田さん御免なさい」なる記事を書いたから、私は少しく溜飲が下がったが、下がること少なかったのは、一世を風びした免田栄英雄扱いゆえである。 昔冤罪で刑死した者は殺され損だった。だが全き殺され損でもなかった。命は既にないが、殺された者の魂魄がこの世にとどまった。彼の魂魄が、無実の刑死者の仇を討った。 化けて出たからだ。昔の人間は法より天を信じていたから、幽霊は彼らの脳中には存在した。殺した者の脳中にもそれはあった。 天網恢恢(かいかい)疎にして漏らさずという言葉がある。法の網をくぐった者は天の網にひっかかったから、法は不備で良かった。 殺される者はその瞬間目を見開き、殺す者を見て、殺す者と顔見知りになっているはずである。殺した者は、脳裏に強く断末魔の相手の形相を刻んでいる。だから殺された者は夜な夜な夢枕に立って、犯人はうなされ、自首しないまでも狂い死にしたから、それでも無実の罪は浮かばれたのである。今は誰も幽霊を信じなくなって久しいから、幽霊は出なくなったのだ。 不公平にみえてそうではない一例を挙げた。だが、戦後民主主義で、人は平等が当たり前となった結果、次第に人々は他人にしっとすることが多くなった。 今、小泉政権に不満を鳴らす者が増えたと聞くが、これも選挙の投票だけ行って、政治を知らぬ者共の、単なるしっとから出た言葉である。誰が首相になっても、大衆の不満をぬぐうことは必ず出来ぬ相談である。 ハウスメーカーの住宅を買う者の動機の一端は見栄である。見栄なら背伸びしたのだから、ローン返済を政治のせいにするのは心得違いである。 一例として、平成元年当時の銀行ローンの返済金利と今のとを並べておく。ただし、ローン・金利にもいろいろあり、ひとことに言えないが、平均的な基準金利として書く。私が新築した平成元年の銀行ローンの返済金利は固定金利で、4.7パーセントだった。預金金利も高かったがそれはつかの間で、一年後、二年後はみるみる下がったから、返済の苦労は実質ゼロ金利の今と変わりない。 ただいまの返済金利を銀行に問うてみたら、正確に2.375パーセントであった。こんなに低くてなお文句を言う者は初めから家など買わぬが良い。 私が25年ローンを十年で完済したと書くと、読む人は多分不快感を覚えると思うが、英・数しか指導出来ぬ個人経営の我が塾の台所は毎年火の車であった。十年目の預金金利は既にゼロ金利だった。ならば怪しいと思われるだろうが、確定申告に備えて、経費などの対策を講ずることに毎年腐心し、更に父親の年金があったから、何とかなったのである。 「埴生の宿」という名曲がある。あれをいい歌だと心和む思いで聴く一方で、ローンを抱えた明け暮れに不満を鳴らすのはこっけいである。 すべてはしっとが根っこにある。しっとを生ずる根っこには物欲がある。物欲は煩悩の代表である。除夜の鐘をたたいた者が去年おおみそかにいたならば、その鐘を打つ時の感触と自ら打って聴いたその音色を思い出してみたほうがいいと思う。それでも不満を不承出来ないなら、除夜の鐘など打たないほうがいいし、「ゆく年くる年」に風情を感ずるのも怪しいものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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