カテゴリ:民衆の歴史
学級の誕生 マルレの石版画集より(12)
昨年7月中旬から連載した、「学級の誕生」というシリーズで、学級の原型ともいうべき、ランカスター青年とベル青年の2人が、ほぼ同時期に全く別々に編み出した、モニトリアルシステムと呼ばれた教育方式を紹介しました(8月12日のno,29~8月18日のno,35までをご覧ください)。 19世紀の初頭にイギリスで始められたこのシステムは、1815年を皮切りに、「初等教育協会」と呼ばれた団体を中心に、フランスでも強力に推進されました。セーヌ県知事シャブロンは、最小の費用で識字率を大幅に向上させる教育法だと受け止めて、この教育法を高く評価し、県内全域で採用することにしたのです。 パリ市議会は、シャブロン知事の要請に応え、学校創設のための予算を可決しています。この絵は1822年のものですが、この年パリには、この絵と同種の学校が88校存在していたことがわかっています。ただ、フランス王政復古期(1815年~1830年)の国王が、ルイ18世からシャルル10世に替わると、政府の方針が替わり、庶民の教育レヴェルの向上は、民衆をして反政府派や自由派に近づけるとして、ランカスター方式の学校は、半分近くに減らされていったのです(1830年には、48校が残る形になっていたのです)。 この絵は、絵の雰囲気からして、礼拝堂を改装した学校に見えます。教室の壁には板が掛けられています。板には、その日或いはその週の学習予定が書かれた紙が、ピンなどで留められています。最前列の端で、生徒の1人が、学習中の文章を掲げています。 文章の単語は1語づつ、主たるモニター(生徒の指導員)が文字を指しながら読み上げ、順次生徒がそれを石版に写し、順に読み方を繰り返すのです。各列6人づつ並んだ生徒の脇には台が置かれ、サブ・モニター(副指導員)が立っています。どうやらフランスでは、1グループ12人の生徒がサブ・モニターの担当のようです。この12人が石版に書いた文字や綴りの○と×をサブ・モニターが数えて、点数を書きいれます。 ここにマルレが描いているシーンは、ランカスター式教育法の最も単純な一形態です。その他については、恐縮ですが、『学級の誕生』シリーズの上記した部分をご覧ください。 ところでマルレは、ランカスター式教育法の問題点も、ちゃんと絵の中に描き込んでいます。右手のサブ・モニターの横の生徒は、うつぶせになって居眠りをしていますし、2列目には、退屈しておしゃべりしている生徒の姿があります。そして何よりもモニターに仕事を任せてしまった教師は、教室の傍観者然と、全くやる気をなくしたような、退屈を持て余している姿で、描かれているのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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