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テーマ:アメリカ外交史(232)
カテゴリ:米外交史
▼ロレンツ証言に関する筆者の考察
ロレンツは歴史の生き証人だ。カストロのキューバ革命、ピッグズ湾事件、ケネディ大統領暗殺、弟のロバート・ケネディ暗殺、ウォーターゲート事件、下院のケネディ暗殺調査特別委員会、キューバ難民問題――。波乱の60年代、70年代に次々と起きた歴史上の事件、出来事に少なからぬ関係があった。ロレンツの生涯は、あの歴史とともにあったのだ。 しかし、ロレンツの証言についての評価は、意見が分かれている。事実、下院暗殺調査特別委員会でのロレンツ、最後には委員らにより執拗に揚げ足を取られたことは紹介したとおりだ。この後、実際にロレンツの証言を補強する決定的な物証、特に写真が提出されたという記録はなく、最終的に委員会はロレンツの主張を裏付ける証拠は見つからなかったという結論に達っしたようだ。 確かに、オズワルドを目撃したという日時以外でも、ロレンツの発言には矛盾やはっきりしていない点が目立つ。ロレンツは、ノートに記した陳述書ではダラスでハワード・ハントがモーテルに来たと明言しているが、委員会の証言ではハントのことをはっきり見ていないと言葉を濁す。だが、その後のハントの民事訴訟での証言、それに九三年に出版された自伝を見ると、ダラスのモーテルでケネディが暗殺される前日の二十一日にハントを四十五分から一時間も見かけたと断言しているのだ。さらに、ダラスに向けマイアミを出たのは、陳述書では真夜中過ぎであると主張しているのに、証言では昼間出発したとしている。暗殺前、ロレンツがダラスに何日までいたかについても、証言では十九日前後、その後のハントの裁判や自伝では暗殺前日の二十一日までいたことになっている。 それでは、ロレンツの証言は、委員会の結論のように、信じるに足るものではなかったということなのか。彼女はウソをついたのか。筆者はそうは思わない。ロレンツ自身が言っているようにウソをついて得することは彼女には何もない。偽証をしてまで証言する必要など全くないはずだ。多くの矛盾点はあるものの、大筋では話の内容は一貫しており、むしろ、その大筋こそ、研究家は注目すべきではないだろうか。 委員会で一番問題となったロレンツのオズワルドをめぐる発言に関しては、いくつかの仮説が成り立つ。一つ目は、ロレンツがオズワルドと似た別の人物をかってに彼だと思い込んでしまった、という仮説。しかし、これだと、名前まで一致するはずがない。 二番目の仮説は、オズワルドの影武者、つまり何らかの極秘作戦を遂行するためCIAが"オズワルド"の替え玉を複数用意していた、というものだ。 オズワルド複数説を採る研究家は多い。というのも、六〇年一月三日付けのFBIの捜査記録には、オズワルドの出生証明を使った詐欺事件の可能性があるとの記述が出てくる。次にオズワルドがソ連にいたとされる六一年一月二十日には、オズワルドと名乗る男ががっちりした体格のラテン系の男と車の販売店に現れ、「民主キューバの友」という団体のためのトラックを探していた。六三年十一月一日、ウォーレン委員会がオズワルドはダラスで働いていた証拠があるとした日には、オズワルドとみられる男が、フォートワースの銃器店に来て武器を購入している。極めつけは、ケネディ暗殺の約二カ月前、オズワルドと名乗る男がメキシコのキューバ領事館とソ連大使館を訪れたことだ。ところがCIAがメキシコに現れたオズワルドだとした写真は、オズワルドとは似ても似つかない体格の男だった。 こうしたオズワルド替え玉説主張者の中に、元CIA工作員、ロバート・マローもいる。マローによると、オズワルドの替え玉には少なくとも、外見の替え玉であるセイモアと、声の替え玉であるエチェヴェイラの二人がいた。メキシコでオズワルドを名乗った男は、エチェヴェイラであったため、出回った写真がオズワルドと似ていなかったのだ。 オズワルド複数説をロレンツの証言に当てはめると、一九六〇年と六一年に見たのはマローの主張するセイモアであった可能性が出てくる。場合によっては、ダラスに同行したオズワルドもセイモアであったかもしれない。ロレンツが出会ったオズワルドが無口であったことも説明がつく。おそらくセイモアは声が本物のオズワルドに似ていなかったのだろう。 しかし、ロレンツは写真を見た上で自分の会ったオズワルドと同一人物だと断言しているわけで、双子でもない限り(オズワルドにはロバートという兄か弟がいるが、双子ではない)、ロレンツがセイモアとオズワルドを間違える可能性は低いように思える。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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