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テーマ:歴史なんでも(780)
カテゴリ:歴史箱
私にはまだ疑問がありました。仮に天狗族という少数の技術集団が古代日本に縄文人とは一線を画して山の中で暮らしていたとしたら、多数の縄文人たちが暮らす場所に地名を残すことはできなかったと思うんですよね。たとえば、羽根という地名です。この地名を後世に残すとしたら、里で暮らしている人々に溶け込まなければできませんね。
すると、インスピレーションはこのように告げます。「だから(縄文人たちは)女性を(山の上に住む天狗族に)ささげたでしょう。ただし(ヤマタノオロチのように)食べたりはしなかったけどね」 おやまあ、このインスピレーションさんがおっしゃることが本当なら、縄文人たちは山にいる天狗族に女性をプレゼントしたことになります。それにより縄文人と天狗族の間に「交流」が生まれ、お互いに行き来できるようになった。そうなれば、天狗族たちの拠点(基地)を示す「羽根」のような地名を残すことも可能だったのでしょう。「声」はそのように言っているようです。 すると、スサノオに退治されたというヤマタノオロチは天狗族だったのでしょうか。それに対して内なる声はこう告げているように感じます。天狗族とは異なり、彼らを真似して人里から離れて棲み、人間に実験をするグループもいたのだ、とか。これは爬虫類系宇宙人のことを言っているのでしょうか。ちょっと謎ですね。そうした「ヤマタノオロチ」のようなグループと天狗族は区別する必要があるようです。 さて、話を元に戻しましょう。鳥居の「居」という字を漢字字典で調べよとのお達しでしたね(笑)。白川静の『常用字解』によると、祖先を祀るとき、祖先の霊の代わりになって祀られる「かたしろ」と、「腰掛」が合体した漢字だそうです。そこから喪に服するときのように、儀礼のときにうずくまる姿勢を指すのだといいます。確かに鳥族や羽根族(天狗族)をうずくまらせた(服従させた)場所を鳥居と呼んだとも解釈できますね。 もちろん、こうした大和族による東西に延びる帯のような「結界」は一朝一夕にできたわけではありません。その後何世紀にもわたる、出雲族の残党をはじめとする不満分子狩り、つまり「蝦夷討伐」の中で作られた結界のような気がします。そしてご存知のように8世紀後半から9世紀初めにかけて桓武が東北に派遣した坂上田村麻呂により、結界は完成をみるわけです。その話は以前、「出雲国譲りラインの謎」として月刊誌「ムー」に書いたとおりです。 その「ムー」ですが、今日(3月9日)発売の四月号に私が書いた「伊豆半島ピラミッド・ラインの謎」が掲載されておりますので、ご興味のある方はお読みください。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011.03.10 00:16:10
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