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HANNAのファンタジー気分

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May 11, 2010
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テーマ:本日の1冊(3684)

 1990年のSF大賞受賞作。ですが、私は当時、種村季弘(ファンタジーの原点みたいなのに詳しい学者さん)の書評を読んで感動し、感動しすぎて小説そのものを読むのを忘れて?いました。
 先日、本屋さんで文庫を発見し、やっと読みました。そして、まるで、整理をしていたら若い頃の思い出の品が出てきた時のような、なつかしい感動を味わったのです。

  二人の兄弟が誘拐された父をさがして未来都市に旅立つ。消費が自己目的化して、いわば消費が消費者を消費しつくした世界が行く手にひろがる。遺伝子工学から生まれた細菌や下等動植物が異常肥大して怪物化した驚異空間。・・・(中略)
  未来風景のなかの怪物たちは・・・だれでも知っていることばのコラージュから生まれてくる。一例が「アド・バード」。アドバータイジング(広告)とバード(鳥)を、それぞれハサミとノリで切りきざみくっつけた、いわゆるカバン語である。・・・
 ・・・人間の脳髄を埋めこまれたアド・バードは、美女の顔をして歌う迦陵頻伽(かりょうびんが)という極楽浄土の鳥に似ている。           ――種村季弘の書評「椎名誠アド・バード 消費社会の滅んだ後」、1990年4月の朝日新聞より

 最後に出てくる「かりょうびんが」は、ちょうどその頃はまっていた神坂智子の『風の輪 時の和 砂の環』に出てくる「妙音鳥(カラビンカ)」(仏教美術の飛天、つまり天を舞う天女のもとになった架空の鳥)そのものでした。さらに、聖書の「ヨハネの黙示録」に出てくる災いを叫んで飛び回る鷲とも、イメージが重なるような気がします。(「ヨハネの黙示録」については詳しく知りませんが、ルイスの「ナルニア国ものがたり」『さいごの戦い』の原点の一つです)

 また中ほどに出てくる「カバン語」というのは、ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』のハンプティ・ダンプティがやたら造語をするときに使っている言葉です。
 私としては、わざわざアドバータイジング、と言われなくても、アドバルーンと同じ発想だなと思う方が納得できます。そういえば最近はめっきり見かけなくなったけれど、子供の頃は大きなお店のてっぺんなんかにゆらりと上がっていて、思い出すと、昭和の高度成長期のほんのりしたなつかしさが感じられます。

 ともあれ、上記のような書評を読んで私は「シーナさん、このイメージの原点はオールディズの『地球の長い午後』じゃないか?」と思ったのですが、文庫版の解説を読んで、それが当たり!だったことが(20年も経ったあとで)分かって、何だか嬉しい気分です。

 さて、物語そのものは、「ヒゾムシ」「ワナナキ」「赤舌」「酸出し」などといった気味悪い生物が廃墟となった都市を食い荒らしていく近未来世界が舞台です。虫も植物も小動物や魚も、80年代に流行始めた「バイテク」によって奇妙キテレツなものに変えられてしまっているのに、彼らは彼らなりに環境に適応して“進化”の一人歩きをして、生存競争を日々戦っている。そこでは人間はもう主役ではなくなっています。
 そんな終末的世界は、宮崎駿『風の谷のナウシカ』にも似ていて、そういえばこれも80年代だなあとなつかしく思い返します。

 そのような舞台を旅していく主人公たちは、古典的な「父親さがし」つまりは自分のルーツを求め、アイデンティティを確立しようとする青年の探索(クエスト)を行っているのです。
 結局は父親はもうもとの父親の姿ではなく、知覚神経だけにされてボックス(機械)にはめこまれ、海を探査するレーダーのような仕事をさせられています。だから直接話しかけることも会うこともできない。それでも、父親は「海ばしり」という生き物を遠隔操作して助けてくれたり、探査のスクリーンになつかしい故郷の景色を映してくれたりします。
 ファンタジー的に言うと、お父さんの体は死んじゃったけれど魂はそこここに宿って、主人公たちを見守ってくれているということでしょう。

 魂とか霊というものを登場させないSFの手法だと、こんなふうに最後に心を機械に託すことがよくある気がします。
 たとえば松本零士の一連のシリーズで、トチローの体は病んで死にますが、精神や記憶はアルカディア号のコンピューターの一部となる。『銀河鉄道999』では肉体を機械にする機械人間は「悪い」とされているのに、精神を機械にすることは「良い」のかなあ、と考えさせられます。
 それからやはり80年代の『ノーライフ・キング』で、コンピュータ・ゲーム世界を生きる子供たちは、自分自身の成分分析表を「キカイブモン」だけで割り切ろうとし、「なりたいもの コンピュータ」などと自己表現するのでした。
 そういえば、電脳空間や近未来都市の退廃などを描くサイバーパンクという言葉が出来たのも、この頃でしたっけ。

 何だか話が別の作品にそれてばかりいますが、それというのも『アド・バード』にそれら色々なSFファンタジーの根源的要素がずっしりと詰まっているからなのでしょう。

 最後に、この物語には80年代よりもっと古くなつかしいものもたくさん出てきます。
 まず人名ですね。主人公がマサルというのはカタカナだし良いとしても、弟が「菊丸」、機械にされてしまったお父さんは「安東咲次郎」というのです。もう時代劇的に古い。
 それから、主人公が子供のころみんなで楽しみにして見たという、夕方、大空に映し出されるヒーローもののショー。これってTV以前、むかしの町角の紙芝居を思い起こさせるんですね。今の子供たちは屋内でそれぞれゲームに興じていて、開放的な空間でみんなで共通のヒーローを見る、みたいな雰囲気はもはやありません。
 きわめつけは、主人公と父親との心をつなぐ曲、お父さんが海辺で口笛を吹いた、「夕空晴れて秋風吹き・・・」の歌(「故郷の空」)です。これは私の年代よりもっと前の世代の小学校唱歌です。シーナさんはこの歌がお好きなのだと思いますが、どうしてもこのメロディーは、私にはドリフの「誰かさんと誰かさんが麦畑・・・」です。
 この曲を、長い物語のいわばテーマソングとしているあたり、昭和的なレトロ趣味が近未来的廃墟と奇妙にマッチング(いや、ミスマッチングというべきか)していて、何とも切ない味がします。

 いや、久々にはまれる大作を読んで、長々と書いてしまいました。 





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Last updated  May 12, 2010 12:24:48 AM
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