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カテゴリ:中島三郎助
三浦半島で海防警備に当たっていたその場所を見てみたい
しかし、前回ちょっと書いたように大砲の飛距離を考えたら台場を増やすより、軍艦作ったほうが全然安心。 そんなわけで台場の重要性が揺らぎ今ではもう跡形もありませぬ。 それでも地元郷土歴史家の某大先生に無理をお願いし、三浦半島を案内してもらえることに…←まったく無謀だ我ながら良くやった… 生憎時々泣き出す空模様から写真が上手く撮れず、今は跡もないとなれば何度眺めてもただの山でしかない写真の数々。 あ~あ。 今までの龍神しょってたおでかけに比べたら全然ラッキーさと自分を慰めつつ、こんな天気でも家族連れに賑わう海辺を巡ったのでした。 ~観音崎~ ここは台場がなくなった後、直ぐに灯台として生まれ変わったところ。 初点灯年月日は明治2年(1869)1月1日。ヴェルニーによって起工されました。 箱館戦争の頃ですよ。もちろん中島さんたちはそんなことも知らずに遠い蝦夷地でつかの間の休息を取っていたことでしょう。 現在は山全体が公園となり保護されているのでこれ以上荒れたりしないでしょう。 灯台の立っているまさにこの場所に台場があり、大砲を備えていたのだ。 う~ん。 お天気がよければ房総半島がはっきり見えるそうです 当時の面影は全然ないのね~と思っていたら、ありましたよ コレは当時の見張り場へ続く階段だそうですよ。 コレを登って物見をしたらしい。 異国船がやってくるのはいつもこの時期。そう雨の日も多かったんじゃないかな。 足場も視界も悪いそんな時は、さぞや緊張したことでしょう。 ペリー艦隊が来た時、海防警備に携わった人たちは身分の上下に関わらず遺書を書き水杯を交わして警備に当たったといいます。 なんと大げさな!と笑いますか? 此処まで来る間にはいかめしい洞窟もありますよ。 洞窟は 聖武天皇の御代天平13年(741)春、行基善薩は諸国修行の途中ここに来られ、この洞窟にすんでいる大蛇が、漁民や人々を苦しめているのを聞かれ、大蛇を退治してその霊を鵜羽山権現として祀りました。 この近くの走水神社に日本武尊とその后弟橘媛命がお祀りしてありますが、この洞窟の沖で入水して海を鎮められた弟橘媛命を十一面観音として刻まれ、側に安置されまして以来海上安全人命守護の霊地として信仰されてまいりました。 (案内板より) む?弟橘媛命 前に見たよなぁ。右近クンと段チャンで交代でヤマトタケルとタケヒコをやったのを。 あの時自らを海に沈めて「命様を助ける!」とけなげに沈んでいった姫を演ったのは、アレは春猿丈じゃなかったっけ? 波に飲まれていく弟橘媛命に必死に手を伸ばし悲しみに絶叫する段チャンタケル壮絶だったなぁ。 そういえばその走水か。ここは。 旗山崎~十石崎を眺めつつ右に走水神社をちらみして海岸線を走ります。 ~会津藩墓所~腰越 文化7年(1810)、藩主松平容衆(かたひろ)候は江戸湾(現在の東京湾)警備と台場構築を命じられ、房総半島には白河藩、三浦半島には会津藩が侍や足軽、その家族を含めて千数百人が移り住み10年間過ごしました。 三浦半島の防備についた会津藩は、三崎の城山と鴨居の腰越に陣屋を、観音崎など3ヶ所に台場を置き、守りを固めました。 そして、鴨居に養生館、三崎に集義館という子弟の教育の場である学問所を開きました。 学問所まで作ったというところに会津藩のカクゴが見えますね。 三浦半島には、当時の会津関係者の墓(鴨居西徳寺・能満寺・走水円照寺など)が多く残っています。 ただ、名前まではあまり伝わっていないそうでわずかに墓誌に残る名が手がかりのようです。 墓も神式でした。←亀はいないけど…。 えっ…?当時藩主の容衆候は7歳 ここは急坂になっていて坂の上に墓所があります。 この辺り一帯が会津藩の陣屋があったところといわれ、その規模はかなりなものだったようです。 慣れない土地での慣れない仕事、さぞや大変だったろうけれど台場構築などは地元の人々も借り出されて供に苦労をしたのでしょう。 そんなわけもあり近年横須賀と会津若松は友好都市提携を結んだそうです。 ここの墓所はちゃんと手入れがされていてお花も供えられています。 時の流れに呑み込まれ、消えていく墓石も多い中コレは凄いことですよ この辺一帯全部会津ですよ 古いトンネルをいくつも潜り(方向音痴・地図音痴のため上手く説明できません~)鳶の巣、亀ヶ崎、鳥ヶ島、明神崎と場所を教えてもらいます あ~ぁ、また長くなっちゃったので続く~☆ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年07月24日 23時33分15秒
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