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カテゴリ:毎日の記録
亀趺座の謎について日々考える。
謎は深まるばかりでちっとも進歩しないケド。 墓所のカタチはなんとなく理解した。 その形式も。 では会津にとって亀趺ってどういう存在だったんだろう 例えば諏方神社。 あそこには亀趺座の燈籠が5基ある。 鶴ヶ城の諏訪神社にもそれらしい亀趺座を持つ燈籠があり、飯盛山の白虎隊墓所にもある。 飯盛山の供養車はどうみても亀趺。(案内には「ばく」って書いてあるけどもどうみても「亀趺」だよね) そして個人の墓所にも供養車を見た(モチロン亀趺座だった) 謎だ…。 会津の燈籠の亀趺座は墓所の亀趺とは意味がチガウんだろうか 会津の亀趺は守るべきものの方を向いていると言う それは他の藩の亀趺と一番違うところだと思う。 もっとも猪苗代の亀趺は南向きに置いたら猪苗代湖に帰っちゃうので北を向いてるらしいが… う~ん…わからない それなのにチョット寄り道したくなった。 友松勘十郎氏興;貞享4年(1687)2月29日66歳没 1664年会津藩家老となる。 田中正玄家老と共に家訓の制定、神社政策、藩政に尽くす。 正之公の死後、遺言に基づき神葬並びに土津神社の創建をする。 またそのために土田堤の大工事、新田の開発を行った。 忠彦霊社(まめひこれいしゃ) この人のことが知りたいの。 1673年(寛文13)正之公の墓所を創建するにあたり脱藩したと言うのは本当なの? なのにその6年後の1679年(延宝7)「知行二千石を没収、30人扶持を賜う」 とあり、さらにさらに 1680年(延宝8)「松勘十郎氏興の勘気を免じる」とあるのは…? でもその間1676年(延宝4)まで家老に名前があるんだよね。 すると脱藩したのはあくまでそう装ったってことかしら? いったい何があったんだろう~~ キニナルゥ。 最近忙しくて頭がごちゃごちゃしてきたのでギモンを整理してみました。 ゆっくり図書館とか行きたいな~…モチロン会津の お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年07月04日 00時54分05秒
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