カテゴリ:お菓子ツアー07秋
1832年、オーストリア宰相メッテルニヒのもとで16歳のフランツ少年によって生み出されたチョコレートケーキ 『ザッハトルテ』は、当時たいへんな評判をよび、後にハプスブルク家にも愛されヨーロッパ各地の宮廷に広まる大変な人気を博しました。
2004.6.25 Hotel Sacherのザッハトルテ(*この写真のみ友人が撮影) ホテルザッハーのHPによると、メッテルニヒ公が高位の来客のために特別美味なデザートを用意するように命じたまさにその日、シェフが病気に! 命令は見習い2年目、16歳のフランツ・ザッハー(Franz Sacher 1816~1907)という機転が利く少年に伝えられ、彼が作った糖衣の下に美味しい杏ジャムを塗った柔らかくふんわりしたチョコレートケーキは大絶賛をあびた、という逸話が。 彼はこの小さな集まりの中での大成功を忘れず、見習いを終えエステルハーズィー伯爵の菓子職人として働いた後、ブラチスラヴァ、ブダペストで、大評判だったザッハトルテを再び作り、輝かしい経歴が始まります。 フランツ・ザッハーの息子がホテルザッハーを開業。 「1832年に考案されたオリジナルレシピに従って作られている」「おそらく世界で最も有名なケーキ」ザッハトルテは、以来このホテルを代表する人気商品に。 2004.6.25 Hotel Sacher ザッハトルテの名が一気に知れ渡ったのは、フランツ・ザッハー(91歳で没)の孫の時代に、ホーフブルク(王宮)に程近い王室御用達の老舗菓子店デーメルにその製法がもれてしまったため、特許権をめぐり7年にも渡る長い裁判が行われたことによります。 結果、どちらのザッハトルテも認められることになり、ウィーンの人々は一安心。 Hotel Sacherのザッハトルテ ホテルザッハーのトルテの上には「丸いチョコレート」(周りはひらひら)がのり、杏ジャムを間にはさみます。 デーメルのトルテの上には「三角のチョコレート」が飾られ、生地を覆う様に杏ジャムが塗られます。生地はスライスしません。 Demelのザッハトルテ Demel 現在はウィーンのどのお店にもザッハトルテがありますが、オリジナルレシピはホテルザッハーに受けつがれ、製法は今なお秘密とされています。 ホテルザッハーのHPのオリジナルのザッハトルテの見分け方には6つのポイントが示され、「オリジナル」への並々ならぬこだわりが感じられます。 今やホテルザッハーでは毎年36万個以上のザッハトルテが作られ、1998年には直径2.5m!のものがギネスブックにのる等、話題をよびました。 ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ オーストリア国家公認 製菓マイスター(コンディトア・マイスター)の称号を持つ日本人、 三浦祐一氏は、青森県にウィーン菓子のお店を出されています。 ウィーン菓子シュトラウス ザッハトルテの製法 ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ メッテルニヒ 外交の天才と呼ばれ、1814~1815年に、フランス革命とナポレオン戦争によって混乱したヨーロッパの秩序回復と領土分割を目的として開催されたウィーン会議を主導、議長を務めた事で有名です。 このウィーン会議は、各国の君主が集まり互いの利害を主張しあったため話はまとまらず、会議の合間に開催された華やかな晩餐会や舞踏会、音楽会を風刺する「会議は踊る、されど進まず」という言葉が生まれました。 『ハプスブルクプリンセスの宮廷菓子』 この本によれば、ロシア皇帝、プロイセン国王、デンマーク国王をはじめとする参加国の錚々たる賓客たちは、オーストリア皇帝フランツ一世の晩餐会の折に、ウィーン工房 アウガルテン の美しい「花のシリーズ」の食器でウィーン宮廷料理や宮廷菓子を堪能したそうです。 ウィーン宮廷菓子の名声は華麗なる食卓外交のおかげで、この会議以降世界中に広まったのが面白いですね。 その中心となった天才菓子職人アントワーヌ・カレーム(1784~1833年)の名も忘れられません。 ウィーン菓子について、もっと詳しくお知りになりたい方は 関田淳子・著 ハプスブルクプリンセスの宮廷菓子 會議は踊る(DVD) ザッハトルテが食べたい!と思われたら ↓を押して下さいね☆ いつもクリックありがとうございます♪ 一日一回カウントされます。よろしくお願いしま~す。 '07秋 お菓子ツアー もくじ へ戻る ガレットのお菓子日記 Homeへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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