カテゴリ:演奏会
この演奏会、昨今の状況がなければ、また違ったものになったでしょうに。
大阪 ザ・シンフォニーホール 大フィル朝比奈隆生誕100年記念特別演奏会 大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団 ピアノ独奏 伊藤恵 モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488 ブルックナー:交響曲第9番ニ短調 ピアノ協奏曲のことは、「ロマン派的文脈の上に浮かび上がる清冽なモーツァルト」を「柔らかく奏でる」ピアノは聴かせたものの、「やや練習不足のオケ」の「ところどころささくれだったアンサンブル」と「洗練味にかけた音の立ち上がり」が残念だった、というに留めましょう。 ブル9は・・・・この曲のなかに、マーラーを、しかもマラ10を見たのは、初めての経験。それは、ひとえに壮絶なるスケルツォの為せる業。 1楽章もまた、最初こそ固いな、という印象であったものが、繰り返されるパウゼごとにだんだんと神秘さを加えていき、コーダの複調的不協和音が全オケで咆哮を繰り返すとき、そこに何か霊的なものが立ち上がるのを感じたのは、僕だけではあるまい。 そして、2楽章スケルツォは、これこそマラ10のブルガトリオでなかったか。全弦楽器渾身のダウンボウが生み出す四分音符を「凄絶」といわずして何と表現すべきか。 その「ブルガトリオ」を転回点として、それこそマラ10のシンメトリー構造を彷彿とさせるが如くに立ち現れる3楽章は、「彼岸」の音楽。死後の世界がそこに現れた、と表現すべきか、それとも向こうの世界からこちらに何かがやってきた、と表現すべきか。 終演後の長い沈黙の後、朝比奈隆の遺影を指揮台に立ててこちらを振り向く大植英次に、会場が総立ちの拍手を送るのを見るとき、 僕は思う、これこそ無形の文化財なのではないか、と。 大阪府知事は、そのことを分かっているのか? 財政難だから、四天王寺を売りに出すのか、水掛不動を売りに出すのか? この文化財を捨てるつもりなのか? あえて今日は開演前にプログラムを読まなかったのだが、帰りの電車の中で、僕はこの文章を見つけ、演奏を聴いているときに自分のなかにわき起こったこの思いとの共鳴に愕然とする。 「すべては交響楽のために・・・・・この言葉ほど、朝比奈の人生を的確に表すものはないだろう。朝比奈は交響楽のためにこの世に生まれ、長い人生をオーケストラとともに歩み、後生の私たちのために大阪フィルハーモニー交響楽団という地域社会の財産を残して、その生涯を閉じた。 「朝比奈の生誕100周年という節目の年に、いま大阪のオーケストラが遭遇しつつある難局は、つまるところ、大阪の街が今後、「交響楽」という目に見えない形の財産をいったいどんな形で守り、継承していくのか、という問いかけにほかならない。 「音楽を愛する私たちは、マエストロ朝比奈から多くのものを受け取った。今度は私たちが、朝比奈に恩返しをする番である。 「この先も、決して平坦では内道を歩み続けていくためには、楽団運営にかかわる音楽家やスタッフはもとより、私たち聴衆や市民もまた、「覚悟」をもってオーケストラを支えていくことが、いま改めて求められているのだ。」 今日のブルックナーは、演奏そのもので、一言の「言葉」の介在も無しに、このことをマニフェストしたのだ。それを、彼は、大植英次はやってのけたのだ、ということに僕は身を震わせる。 今一度、大阪の街の人々よ、思いと、そして力を・・・・この「交響楽」に。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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