57年4月、ロサンゼルスからソニー・クラークがニューヨークに着いた。
ソニー・クラークは西のジャズ名所「ライトハウス」をフランチャイズとする
ハワード・ラムゼイ・ライトハウス・オールスターズのレギュラーを
つとめていたので、『できる男』としての話題はジャズメンの間で
広がっていたはずだ。
ニューヨークでたちまち意気投合したのがハンク・モブレーだった。
ハンク・モブレーは、リー・モーガンを推薦した時と同じように
熱くソニー・クラークをA・ライオンに推薦したと思われる。
このハンク・モブレーの“1568”でヴァン・ゲルダー・スタジオの敷居をまたいで(?)
以来、ブルーノートとの蜜月が続く事になる。
ハンク・モブレーは、ジャズ・メッセンジャーズ、ホレス・シルヴァー・コンボ、
マックス・ローチ・コンボといった、若手人気コンボに貢献し、顔の広さと実力を兼備し、
ブルーノートの看板アーティストの一人として定着した頃で、流麗なフレイジングと
新味のあるコード解釈のコンビネイションが益々冴えてきている。
当時ジャズ・メッセンジャーズで才能を発揮していたクリフォード・ブラウン系の名手
ビル・ハードマン、そしてその学友であるチャーリー・ミンガス・ワークショップの
後輩カーティス・ポーターの活きのいいコンポジションで挑んだ意欲作だ。
ハンク・モブレー
ハンク・モブレー ジャズアルバム紹介 に加筆・修正を加え転載。
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