「アンダーグラウンド」 村上春樹
東京の地下鉄で、サリンの散布事件が起きたのは1995年3月20日。あれからもう、14年以上になる。あの日のことを、今でも思い出すことができる。それはあの日、「私はたまたま幸運だった」と強く思ったからだ。 あの事件があった頃、私は西麻布にある小さなオフィスに勤務していた。94年の11月までは、住まいが入谷にあったので、9時からの始業に間に合うように、日比谷線で六本木か、広尾に8時50分くらいに着くようにして通っていたのだが、12月から西荻窪に住むようになった。それで、総武線で千駄ヶ谷へ行き、そこからバスで通うようになった。それから3ヶ月後にこの事件は起きた。 小説家である村上春樹氏の、最初の「ノン・フィクション」である『アンダーグラウンド』を読んだ。この本の存在は知っていたけれど、あの事件のことを深く知ることは、気が重くて嫌だった。それがある日、紀伊国屋の某支店でこの本と目が合ってしまい「読むなら今ですよ」って言われたような気がして買ってしまった。……いや、気のせいだとしても。 村上氏が60人のサリン被害者にインタビューをし、できるかぎり話し手(インタビュイー)の言葉(意図)を忠実に再現したものだと書いてある(もちろん、話し手が後で掲載を断った箇所は削除されている)。最初から最後まで、延々と、そこに居合わせた人々の目の前で起こったこと、体験したことがつづられている。同じ現場に居合わせた人たちがそれぞれの目で見たこと、覚えていることを話している。サリンに汚染されたときの症状が同じだったり、少しずつちがったり、教団への怒りを表したり、どう考えていいのかわからない、と訝ったりそのときのストレートな反応がただただ、そこにある。 しかし、その内側にたしかに在るエネルギーに驚く。 なんと言えばいいのだろう。「署名」みたいな力に近いかもしれない。「なんとなく床がぬれていて変だと思った」「暗いなあと思った」「息が苦しくなった」そのようなことを被害者みんなが言う。だからそれは本当のことだったんだ、と思う。バイオテロなんて、アメドラの中の話と錯覚しそうだが、でも、ほんとうにあったことだったんだ、と愚かしくも今さらまた思った。 そして、私とは逆に、あの日にかぎって、たまたまその電車に乗り合わせてしまった人たちが意外に多かったことにまた、おどろき、申し訳ないような気分にさえ、なってしまった。私がそう思ったところで何の足しにもならないのだけれど。ただ、自分がラッキーであったことをもう一度あらためて、深くうけとめることができた。本を閉じて「なんだか、自分、ごめんなさい。ありがとう」そんな気持ちになった。 最後にこの膨大なフィールド・リサーチの仕上げに、「私たちはここから何を学ぶのか」。そこに筆者の、ありったけの思いが語られている(あまりネタばれしたくないので、控えめに書きますが、読もうと思ってる人は以下、読まないでください)。--------------------------------------------------- この事件に加害者として関わりを持ったオウム真理教の信者たちから、私たちがなんとなく目を反らしたくなる理由が、たしかにあったのだと筆者は言う。簡単に言えば、他人(教祖、麻原)の生き方に自分(信者)の人生を委ねることで、主体的に生きることを放棄し、つまりは「判断」や「責任」から逃れている信者たちに、私たち自身の危うさや弱さ、もろさを垣間見てしまうからではないか、と。 サリン事件について、長いこと掘り下げたくなかった理由はもちろん、気づいてはいなかったけれど、私自身の問題として、自分の中にあったからなのかもしれない。自分主体ではなく、別の何かに身や心をゆだねてしまうことによって、自分のものではない人生を生きてしまう危険。やはり、潜在的にはそれをいちばん恐れていたのだろうし、実際、いまでもそうだ。 ときどき意識していないと、私はフラリと人の思考回路を疑似体験し、あたかも自分がわかっていることのような錯覚に陥っている。だから「自分のフィルター」をできるだけしょっちゅう、意識し、「これはこれでいいのだろうか?」「わかったふりしてないか?」そう自分に問いかけるようになったのだと思う。 そうなった今、この本をちゃんと読めた気もする。そして今だから、この事件について、やはり他人ごとではないと思う。切迫感がある。昨今、頻発している「誰でもよかった」殺人と、この事件の加害者、根っこはおそらく、そんなに違うものではないのでは?と思い至った。短絡的に何かに身を委ねたり、無理やり結論を出そうとしたり、切り捨てたり……。 子育てをする立場から考えると、「早く早く」「急いで」「今すぐ」……。そういう日々の習慣はやはり危険なのだと思った。子供に考える暇を与えない、言われるがままに急がされる、即行動に移せないとバツがつく……。そんなふうに育てられ、うまく自己を確立(感情教育の仕上げ?)できなかった子供が、大人になったとき、悲劇が生まれる可能性があるのだなと感じた。このことをいつでも思い出せるように、しておこう、と思う。 多くの人は、一度は見聞きした事実だと思うが、 書き留めておこうと思う。この事件に関わった信者は、全員、高学歴。エリートだった。