544.海軍大将異聞(4)樺山資紀陸軍少将は、海軍に転じ、海軍少将になった
(ウツボ)次に、昭和十二年一月一日調べの現役海軍士官名簿の順位は次の通り。階級は全員海軍中将。(カモメ)14塩沢幸一(2・大13・三席)、15井上継松(8・大13)、16吉田善吾(12・大13)、17山本五十六(11・大14)、18前原謙治(14)、19嶋田繁太郎(27・大13)。(ウツボ)堀悌吉(1・大16・次席)は、昭和八年十一月十五日に海軍中将に進級後、昭和九年十二月十日に待命、十二月十五日に予備役に編入された。(カモメ)松下薫(3)は、昭和八年十一月十五日に海軍中将に進級後、昭和十一年三月二十八日に待命、三月三十日に予備役に編入されました。(ウツボ)鈴木義一(15・大14)は、昭和九年十一月十五日に海軍中将に進級後、昭和十年三月二十五日に待命、三月三十日に予備役に編入された。(カモメ)その後、井上継松海軍中将(8・大13)は、昭和十二年三月十五日待命、三月二十五日予備役に編入されました。(ウツボ)前原謙治海軍中将(14)は、昭和十二年四月十五日待命、四月二十五日予備役。(カモメ)次に、海軍中将から海軍大将への進級時期を見ていきます。(ウツボ)昭和十四年十一月十五日が、塩沢幸一(2・大13・三席)。(カモメ)昭和十五年十一月十五日が、山本五十六(11・大14)、吉田善吾(12・大13)、嶋田繁太郎(27・大13)。(ウツボ)以上、海軍兵学校三二期を例にとって、海軍大将昇進までの実際の過程を見て来た。なお、山本五十六大将は戦死後、元帥が追贈され、元帥海軍大将になっている。(カモメ)ところで、大日本帝国海軍において海軍大将に進級したのは、陸軍中将から海軍大臣に就任し、その後日本最初の海軍大将になった西郷従道から、最後の海軍大将・井上成美まで、七十七人いますね。(ウツボ)そうだね。そのうち七十一名は人事異動に基づく定期進級だ。残り六名は、川村純義は病死後に、遠藤喜一、南雲忠一、高木武雄、山縣正郷、伊藤整一は、第二次世界大戦中に戦死した海軍中将に対して、生前の戦功と戦死に対する顕彰として海軍大将に進級した。(カモメ)それでは、これらの海軍大将の中から、変わったエピソードや特異な軍歴のある大将を取り上げて見ていきましょう。【樺山資紀(かばやま・すけのり)大将】(ウツボ)樺山資紀は天保八年十一月二日(一八三七年十二月九日)生まれ。鹿児島県鹿児島城下加治屋町出身。薩摩藩士・橋口与三次兼器の三男。後に同藩士・樺山四郎左衛門の養子となる。(カモメ)樺山資紀の孫は随筆家の白洲正子(しらす・まさこ)ですね。白洲正子は、明治四十三年一月七日生まれ。東京都出身。学習院女子部初等科終了。米国に留学し、ハートリッジ・スクールを卒業。古典美に興味を持つ女性たちを中心にカリスマ的存在でしたね。(ウツボ)著書は、「お能・老木の花」(講談社)、「きもの美・選ぶ眼・着る心」(徳間書店)、「美しいもの・白洲正子エッセイ集<美術>」(角川書店)など、「なんでもないもの・白洲正子エッセイ集<骨董>」(角川書店)など多数。(カモメ)白洲正子の夫は白洲次郎(しらす・じろう)ですね。明治三十五年二月十七日生まれ。兵庫県芦屋市出身。旧制第一神戸中学校卒。イギリスのケンブリッジ大学クレアカレッジに聴講生として留学、西洋中世史、人類学などを学びました。(ウツボ)帰国後英字新聞「ジャパン・アドバイザー」の記者になった。その後、日本食糧工業取締役。戦後は終戦連絡中央事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官、東北電力会長などを歴任した。(カモメ)樺山資紀は、薩英戦争、戊辰戦争に従軍の後、明治四年九月陸軍少佐(三十四歳)。明治七年五月台湾出兵に従軍、十月陸軍中佐(三十七歳)。明治八年二月陸軍省第二局次長。西南戦争では明治九年十一月熊本鎮台参謀長。(ウツボ)明治十一年十一月陸軍大佐(四十一歳)、十二月近衛参謀長。明治十四年二月陸軍少将(四十四歳)、警視総監。明治十六年十二月海軍大輔。(カモメ)明治十七年二月樺山資紀陸軍少将は、海軍に転じ、海軍少将になったのですね。七月子爵。明治十八年六月海軍中将(四十八歳)。明治十九年一月軍務局長、四月海軍次官兼軍務局長。(ウツボ)明治二十年九月欧米各国出張。明治二十二年七月フランスレジオンドヌール勲章コマンドゥール。明治二十三年五月海軍大臣。明治二十四年六月オスマン帝国美治慈恵第一等勲章。(カモメ)樺山資紀海軍中将は、明治二十五年六月フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシエ、八月予備役、枢密顧問官。明治二十七年七月現役復帰、軍令部長。明治二十八年五月海軍大将(五十八歳)、台湾総督、八月伯爵、功二級。