「母の夢は果てなく明日に」その3
「母の夢は果てなく明日に」その3 1981年 母の友(福音館) 3月号掲載母と妹の二人姉妹は、母親の手一つで育てられることになる。祖母は裕福な造り酒屋の娘であったのに、大家族の貧乏医者に嫁ぎ、肺を病む主人の弟、出戻りの義姉や未婚の義妹のめんどうを見、日夜働き詰めの夫の医院の事務や薬局を手伝い大変苦労した人である。そして若くして夫に先立たれ、その前年には最愛の長男を疫痢で亡くしている。結婚して13年の間に6つの葬式を出したそうである。母の子どもの時の遊びは「お葬式ごっこ」だったというから、葬式の印象は強かったのだろう。若いときの祖母は気丈な人で娘にも厳しかったというが、最晩年はキリスト教の洗礼を受け、穏やかな日々を過ごし、83歳でなくなった。亡くなる数年前、私は生まれて初めて祖母を飛騨の萩原に訪ねて私の2歳の長女を抱いてもらった。初めて会う祖母であったのに、懐かしさがこみ上げ胸があつくなった。 女学校時代の母お転婆で勝気な少女時代を終えた母は親元をはなれ高山の女学校に入学することになる。母を寄宿舎に送り届けて、祖母が高山を発つ日母は生まれて初めて母親と離れるのが悲しく、人力車の母を「帰すものか」と、ワーワー泣きながら、子どものように道の真ん中に仰向けに寝転んで車の行く手をとめたという。私はこの話を聞くたびに、母の一途さが愛しく、その時の情景が一枚の絵となって、12歳の母の姿をほうふつとさせる。しかし2年生の時、結核を患い女学校を休学し一年入院している。どうも母の家は結核の家系だったようである。その後暖かい土地が身体によいということで、宮崎県の小林という所で中学の英語教師の妻になっている父親の妹(母の叔母一家)の許に預けられ、そこで小林女学校を卒業している。勉強は嫌いでほとんど机に向わなかったらしいが、クラスではいつも3,4番ではあったらしい。「お前のお母さんは小林中学生のあこがれの的だったよ。よく付け文がきて、お母さんは困りきっていたよ。」「小林中学の主席でうちによくくる青年から、是非お嫁にくださいと何度も申し込んできたのに・・・あの時その人のところに嫁いでいれば、今頃は一流企業の重役婦人だったのにね。こんな戦争未亡人になって、苦労することもなかったのにねー」と幼い私に向って、叔母はよくそんなことを愚痴ったものだ。叔母の家は小林中学の官舎で、母は中学校の校庭を通り抜けて女学校に通わねばならず、どうしても中学生たちの目にとまる。いくら勝気な母であっても、苦痛な通学路ではなかったろうか。しかし、私は幼心に、母が評判の美しい娘だったということがなんだか嬉しかった。その後母は、奈良女専(現在の奈良女子大)を受けるが、勉強しなかったのがたたり、見事不合格。その後助産婦の資格を取ったらしいけれど、娘時代のことを余り話さないのは、病気がちだったこともあり、いい思い出が少なかったのだろう。 その4 につづく