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カテゴリ:お笑い その他
早朝、ツイッターを見ていたら、高田文夫先生が昨日のラジオ終了後に緊急搬送されたという情報に驚いた。
検索してみると、朝の芸能ニュースをとりあげる番組でサンスポの記事が紹介されたようだが、そのサンスポの記事は朝の段階ではまだネットに出ていなかった。しかし、信頼できるひとがツイートしていたから本当なんだろうと思う。なにしろ、一時心肺停止というのだからただごとじゃない。 しばらくすると、ニッポン放送広報室のアカウントから高田先生体調不良で飯田浩司アナが代演とのツイートがあって、確定となる。 いつもどおり、朝から眠るつもりだったのが眠りそびれてしまった。 「ビバリー」を聴かなければと思ってがんばって起きていたのだが、ちょっとうとうとして、ちょうどオープニングの15分ほどだけ聴き逃がしてしまう。 しかし、こんなときもツイッターの便利なところで、松野大介のツイートによると、清水ミチコが明るく伝えていたとのことなので少しほっとする。 12時台にもまた、高田文夫事務所からのコメントを読みあげていた。 平常通り、13時からは「たまむすび」を聴く。 今日はとても暖かく、部屋のなかではTシャツでちょうどいい。 梱包作業。 外出。 クロネコメール便、7点。 ゆうメール、1点。 ひさしぶりに、ようやくホームページから注文があって気分がいい。振り込みもすぐにしてもらえて、すぐに郵送。スムーズ。 横浜西口。 吉野家、焼味豚丼、味噌汁。 クーポン券消化のためにこのセット。クーポン券を消化するために、普通に牛丼を食べるよりやや高くついてるというのも意味があるのかわからないが。 ビブレ。 ブックオフ。 105円本、5冊。徳大寺有恒、石井光太、桑田佳祐、つげ義春、うめ。 雑誌、1冊。「en-taxi」。 ブックオフはクーポン券のサービスを3月いっぱいでやめてしまったんだな。今後は携帯のクーポンをもっと活用するしかないか。 鶴屋町。 モスバーガー。 雑務。 ツイッター。 昨日から中山涙さんを中心にして「芸」と「人柄」の話が盛りあがっていて、それをイシダドウロさんが「芸人さんの「芸」と「人柄」についての考察」としてトゥギャッターにまとめた。深夜に自分が書いたものもここに含まれてるので、このままでは終われないなと思って引き続き考えていた。 よく考えてみたが、やっぱり、芸人の「人柄」を気にするというのは内側の論理だろうと思う。芸人同士、スタッフなどの関係者が気にするのは当然だが、観客がなぜ「人柄」を問題にするのか。どういう観客が「人柄」を問題にするのかといえば、それは、のめりこむ観客だろうと思う。 観客のなかには「のめりこむ観客」と「引いた観客」がいて、もちろん、はっきり分断されるものではなく、そのあいだにはグラデーションがある。また、同じ観客がのめりこんだり引いたりする。無意識か、能動的かでも異なるだろうが、のめりこむときに、内側の論理にとりこまれるのだろうと思う。 「とりこまれる」というとなにか悪いことのように聞こえるかもしれないが、要は、対象との心理的な距離の問題なのではないかということだ。 中山さんが「せいぜい1970年代後半か、80年代前半」までは「芸=その人自身」だったと書いていたことを受けて、80年代の漫才ブームで変化したことについて思いが至った。 少し前に、笑いとコミュニティの関係について考えていた。80年代の漫才ブームが革命的だったことのひとつには、観客をコミュニティの内側へととりこんでいったということがある。つまり、いちばん面白いのは結局は仲間内の会話じゃないか、ということに気がついて、その仲間の輪を広げることで笑いを濃いものにしていった。とりわけそこに自覚的だったのが、たけしと紳助だったというわけだ。 また、漫才ブームは観客を内側へととりこんでいったが、それは、観客自ら内側へとりこまれていったということでもあるだろう。それまでは無自覚にのめりこんでいたものが、能動的にのめりこむようになった。 そのいっぽうで、80年代後半になると、「引いた観客」が生まれていくことにもなる。そのキーパーソンとなるのがとんねるずと秋元康だろうと思うが、これはこれで語り出したら厄介な題材なので、この場では保留したい。 だから、かつては「芸=その人自身」だったというのは、かつての観客の多くは対象と距離をとることを知らなかったからだということではないか。「芸=その人自身」と認識していたというよりも、「その人自身」しか見えていない。「芸」を認識できないために、「芸=その人自身」だと混同していたといったほうが正しいような気がする。 それがここ10年ほどの傾向だろうか、現代の観客になると、現場で起きたあらゆるものを「芸」として認識するようになる。テレビのフリートークなんかは、ひと昔前ならば、あんなものは芸じゃないと一蹴するひとが少なくなかったはずだが、今では、リアクションであるとか、ひな段でのガヤ、空気を読むことさえも、多くの観客は「芸」として認識するようになっている。この10年ほどで観客の解像度は格段に上がったのだ。 そのために、かつてならば「その人自身」でしかなかったものまで、これは「芸」ではないかと悩むことになる、逆の混同も起こるようになったように思える。だからこの問題は、古典的でもあり、きわめて現代的な問題でもあると言えよう。 ここでちょっと話を違うレベルにするけれども、自分自身のことをいえば、僕は多くの場合、「引いた観客」に自分を位置付けていると思う。あまり「人柄」に接近することを良しとしないのだ。芸人でなくとも人柄の良い人物はいくらでもいるわけだし、ただ人柄の良い人物が舞台に立っていても、それを金を払って観るはずはない。金を払えるのは「芸」に対してだけだと思っている。だって、「芸」に値を付けるのはいいとしても、「人柄」に値を付けるなんていやじゃないですか。 今、「人柄の良い」と簡単に書いてしまったけど、ひとのツイートを読むと、「人柄」についてもどうやらみんなばらばらのことを言っているような気がする。単にいいひと、っていうんじゃなくても、「人柄」が魅力的な人物はいっぱいいるのに、そこになにか決まった共通の基準でもあるかのようだ。 あとはついでの話だけれども、芸について考えると、そもそも「芸人」という言葉が安易に使われてるのも問題あるなぁと思う。現在使われているニュアンスでの「芸人」という言葉は、もともとはおそらく吉本内言語だろう。 もう抗っても無駄なところまできてると思うけど、テレビに出てるひとは僕は「テレビタレント」だと思う。松尾貴史なんかはそこは自覚的で、「放送タレント」という肩書きを使っている。あんなに芸のあるひとがだ。 以前、バナナマンのラジオを聴いていたら、やっぱり、「芸人」という言葉に照れくささを感じるというような話をしていて、聡明だなぁと思った。「芸人」という肩書きを不本意に感じているひとも潜在的にはけっこういるんじゃないだろうか。 夜になったらやや肌寒くなった。 帰宅。 仕事をするつもりだったが、腹が痛くなってだらだら過ごしてしまう。 ラジオ。 いつもは聴いてない「ナインティナインのオールナイトニッポン」を聴く。 ツイッターから、吉本100周年の話をしていることに気がついたので、10分ぐらい経ったところで急いでつけた。 「駐在さん」での岡村隆史のあの役は、作家の檀上茂に「アホの親玉」と演技指導されたというのが面白い。 その他、打ち上げでの松本人志やさんまとの接触もなかなかわくわくする話だ。 冒頭を聴き逃したのだが、そのころ、矢部はどうしていたのか。岡村だけが熱っぽく語るかたちだったのが少々惜しい。もっとこの話を聴いていたかった。 ラジオをつけたまま、眠りに落ちる。 ◇4月12日のツイログ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012年04月14日 07時27分13秒
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