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戦国ジジイ・りりのブログ

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2018年01月08日
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カテゴリ:江戸めぐり
前回のタイムテーブルの中に

 弘仁6年(815) 空海が徳一や勝道とみられる「東国の某師」に真言宗普及のための協力を
           要請し、広智に真言密教の経典書写の援助を依頼。


という出来事を織り込みましたが、「広智」というのは道忠の弟子で、
熊倉浩靖氏によると

【1、最澄東国巡錫に際して緑野寺法華塔前で両部灌頂を受けたこと
 2、下野国大慈寺の安北宝塔は広智により守られたこと
 3、第4代天台座主安恵(あんね)も広智の弟子で、最澄東国巡錫の際、
  最澄に託されたこと
 4、最澄入寂のため直接に渡すことができなかった徳円への印信はその師広智より
  付嘱されたが、徳円は第5-7天台座主円珍・惟首・猷憲の師となったこと
 5、「師師相伝之明験として、最澄が唐より将来した天台香爐峯栢木文笏4枚のうち
  1枚が付されたこと
 6、空海からも弘仁6(815)年・天長4(827)年の少なくとも2回、
  働きかけのあったこと】
 (『東国仏教と日本天台宗の成立-最澄東国巡錫の意義と背景を導きとして-』より。
   人物解説などについては一部割愛))

が知られているというお人だそうです。

で、6つ目の項目の1回目が上の援助依頼で、2回目が前回のタイムテーブルの

 天長4年(827) 空海が広智に「十喩を詠ずる詩」を贈る。

にあたる訳ですが、「叡山攻め」でもさんざんお世話になった佐伯有清氏によると、
1回目の援助依頼に広智が具体的にどういう返事をしたのかは不明だが、
京都高山寺所蔵の密教経典に

 【「弘仁六年五月、海阿闍梨の勧進に依りて、上毛の沙門教興、書き進ぜり」】
  (『人物叢書 円仁』佐伯有清/吉川弘文館)より)

という記載などがあることから

 【広智とならんで道忠の門下であった上野の国浄土院(浄院寺・緑野寺)の教興が、
  空海の勧進に応えて経典の書写に携わったことが確かめられる。】
  (前掲書より)

そうなんだけど、佐伯氏が『円仁』を執筆した時点では
空海たんと教興を直接に結び付ける史料が見当たらないそうで、
広智が両者の仲立ちをしたんじゃないかと推測されているそうな。

空海たんに関する記事で幾度かお世話になった密教21フォーラム様のサイト
「エンサイクロメディア空海」によると、弘仁6年の際には広智・徳一のほか
甲斐・武蔵・常陸や大宰府などにも密教の流伝や経典書写依頼のための使者を
送ったそうなんだけど、広智へのお手紙には

 【「闍梨は遐方に僻処すれども、善称は風雲と与(とも)んじて周普す
  (広智阿闍梨は、辺境に居住しておられるけれども、すぐれた名声は、
   風雲とともにひろく知れわたっております)」】
  (前掲書より)

と書いてあったそうで、多少のリップサービスが含まれていたとしても、
広智が遠く離れた空海たんからご指名を受けたことに変わりはなく、佐伯氏は前掲書で

 【これによると、弘仁六年当時、広智の名声は、空海のもとにまで
  達していたのである。】

とする。

それで、2回目の天長4年の時については

 【真言修行の要諦を詩に託した「十喩を詠ずる詩」を空海が広智に贈ったのは、
  空海が最澄没後の空隙をねらって、広智のもとで東国の地にひろまっていた
  天台の教学に楔を打ち込もうとしたためであろう。】
  (前掲書より)

と語る。
これについてはまた別の解釈もあるのかもしれないけど、
いずれにせよわかっているだけで2回、空海たんは広智に熱いラブコールを送っている。
ここから、

 【最澄、空海共に依拠・協力を願う強力な仏教集団が東国周辺に居たこと、そして、
  それらの人々の中に、空海よりは最澄に近い存在があったことを重視すべきだろう。】
  (以下【】内は熊倉氏の論文より)

と熊倉氏は言っておられる。
最澄との関係についてはこれから紹介していきますが、
道忠を中心とする「強力な仏教集団」とはいかなるものであったのか、
引き続き熊倉氏の論文に沿って見てみましょう。

 【道忠・広智教団の社会像としては次の4点が指摘できる。
  1、円仁の俗姓は壬生氏で壬生氏は円澄の俗姓でもあったこと
  2、緑野寺に一切経があることは広く知られており全国から注目されていたこと
  3、幾つもの寺院を建立し一切経を書写できるだけの経済的基盤を有していたこと
  4、菩薩戒に立った利他行を活動の中心としていたこと】

詳しくは氏の論文を読んでいただきたいのですが、
壬生公は【東国六腹の朝臣に比べればセコンダリークラスに属する氏族と見られ】、
上野国甘楽(かんら)郡・群馬(くるま)郡・下野国都賀郡を中心に勢力を張った氏族で、
【一般に奈良・平安時代の1郷の人口は1250人前後と見られて】いるのに対し、
【緑野郡の人口は12,000-14,000人程度】で現在の藤岡市・鬼石町と
比較して人口の伸びは5~6倍。
同じく壬生氏の勢力範囲あたりと思われる甘楽郡・多胡郡の伸びはそれぞれ
8倍程度、4倍程度。
ところが、全国で見ると人口の伸びは21倍程度、群馬県では17倍程度と
緑野郡・甘楽郡・多胡郡とは比べ物にならないほど高い伸び率となっている。
ここから

 【緑野郡は極めて人口密度の高い、つまり生産性の高い地域であった。】

という、群馬県人には失礼だけどかなりオドロキの結論が導き出される。

『日本書紀』には緑野郡には屯倉が設置されていたという記述があり、
またかつての緑野郡に相当する現在の藤岡市の平井地区というところでは、
昭和10年の調査で県内最多の古墳が確認されたそうな。
古墳・・・てそういえば、奥武蔵から上のエリアにかけて古墳が多いもんな。
それで、緑野寺は緑野郡最有力の勢力と推測される

 【佐味君が中央の有力な貴族・官人になった後、なお高い生産性を維持したこれら
  中小豪族と彼らに率いられた人々によって建立されたと見てよいだろう。】

と熊倉氏は語り、下野大慈寺・武蔵慈光寺にも建立・経営主体の類似性が認められるとする。

 【結論を急げば、道忠・広智教団が活動した8-9世紀の東国は、農業生産以外の
  各種手工業生産によって、当時の平均的人口密度を数倍するほどの人口を食べさせ
  られるだけの成熟を遂げていたと考えられるのである。これら手工業生産は当時の
  最先端の産業技術であり、それらによって高い人口密度が維持されていたとすれば、
  そこには、いわば古代の地方都市が芽生え始めていたと言ってよいであろう。
  道忠・広智教団の登場は、古代東国社会が「地方都市」を析出させるまでに成熟
  していたことの宗教的、思想的表象とさえ言えるのである。】

いつも以上に引用が多くて恐縮ですが、今までは想像もしなかった内容を
極力そのままに紹介したいので、致し方ありませぬ。
「手工業生産」てのは、人物埴輪や瓦の製造、機織り、採鉱・冶金、金属加工などを指し、
当然渡来系氏族の指導・サポートも考えられる。

しかし、裕福なエリアだってのはわかったけど、それがすぐに
仏教に結びつくとも限らんじゃろ?
どっかの国みたいに軍事費につぎこむ場合だってあるだろうし、
成熟も過ぎると頽廃へと向かうのは人間の性ともいえる。

しかし、これらの地域にはちゃ~んとキヨラカな方向へと向かう素地があった。

まずは識字。

 【(前略)建碑という形式自体が注目される。つまり相当数の人々が文を読み、書き、
  残し、伝えあることに価値を見出していたわけで、このことは手工業生産への関与とも
  関係すると考えられるが、こうした知的伝統があってこそ、膨大な写経、造塔活動も
  可能だったと思われる。】

膨大な写経・・・なるほど。
即座に脳裏をかすめたのはもちろん、延暦16年の最澄の一切経書写です。

だいたい、この事業に協力したのは大安寺の聞寂と道忠ぐらいしか名前が出てこないので、
わたくしも「叡山攻め」ではそのように紹介をしましたが、熊倉氏が言うには

 【『開元釈経録』によれば1076部5048巻に及ぶ一切経の4割、二千巻余は
  道忠による助写だった。】

というからまたオドロキ。
「ひとつの鉢ごとにひとさじの米」なんてレベルの協力じゃないじゃんか~!!

最澄の歴バナでは、最澄だけ見ていてもわからんという趣旨に基づいて
長々と政治的状況まで書いていったけど、さすがに協力者の詳しい背景までは
考えが及ばなかった。
簡単に調べただけで終わらせた程度だった。

実は現在のわたくしのマイブームはすまほゲームのオセロなのですが、
レベルを上げるともう負けっぱなし。
この記事を書いていて久々に一切経書写事業の記事を読み返してみたところ、
熊倉氏の論文を読んだ今では当時の記述が見事にひっくり返されて、
まさにオセロの終盤で血も涙もないコンピューターに綺麗に黒石を
ぱたぱた裏返されるのと同じ状況。
なんでそこまでひっくり返されたのか、もう少し論文の紹介を進めますね。

んで、仏教についてですが、7世紀後半には「知識」と呼ばれる同信の結社(講)が
現れ、東国でも高崎・・・のちの山名氏を輩出するあたりですが、
726年には佐野三家の子孫を中心とする9人の知識による金井沢碑という
先祖供養・入信表白の碑が建てられているそうな。
そして佐野三家の一族は681年時点で早くも僧を出しており、

 【一人の僧を出すことから在俗の知識結成へと進んでいる。そして「三家(みやけ)
  子孫」嫡系の6人を中核としながらも、他の3人が知識に参加する形となっており、
  血縁から地縁・職縁へと知識が拡大されていく傾向が見られる。こうした地域での
  動きを発展させるところに道忠・広智教団の活動は存在した。在俗の様々な職種の
  人々が進んで参加できる活動形態こそ大乗戒に支えられた知識という形態であった。】

職種の広がりは身分の広がりをも意味する。

 【つまり、道忠・広智教団に結集した人々は、単に苛酷な律令国家の収奪体制から
  逃れようとした人々ではなく、手工業生産という付加価値の高い産業技術をもって
  自立性を高めようとした人々だった可能性が高いのである。だからこそ進んで、
  その中から多くの菩薩僧を出して中央-世界の最高の学問を吸収させようとし、
  自ら一切経を揃えんとしたのである。】

そうして緑野寺に一切経が整った。
この時期、一切経を有する寺院なんて全国でも数えるほどしかなかったハズだ。
また、同じような発展を遂げた下野・武蔵の各「地方都市」は
ネットワークを持っていた。
でも、そんな古い時代に自立性を求める民衆がいたとして、
権力者が危険視しなかったのか?
ところが、

 【先に挙げた有姓の壬生氏の多くは、窮民に代わって調庸を納め、戸口増益に功があったと
  されており、壬生公、壬生吉志、及び彼らと同じ社会階層に属する人々は、氏姓を異に
  しながらも、民衆に密着した地域有力者として、地域民衆の「利生」に身を尽くしたと
  見られ、彼らのそうした行為を実践的に裏うちする思想こそ大乗仏教の菩薩行、利他行に
  他ならず、事実「化主」あるいは「菩薩」と呼ばれた僧侶の行った架橋、造寺、衆僧供養、
  病患者の治癒、飢者への施食、寒者への給衣などは華厳経や梵網経では福田つまり菩薩行
  の内実とされている。
  言い換えれば、地域最優勢豪族による多分に勢力誇示的な造寺行為ではなく、地域民衆の
  学習・修行・救済センターとして寺を建てようとする意識の高まりという社会基盤の成熟が
  あってこそ、東国化主としての道忠・広智の菩薩行は具現化できたものと見られ、そのこと
  が最澄に大きな影響を与えたと考えられるのである。】

全国各地に造寺・造仏の伝承を残す行基様はよく「行基菩薩」と表現されるのを
不思議に思ったことはないですか?

「菩薩」といえば観世音菩薩、弥勒菩薩、地蔵菩薩、勢至菩薩などなど、
現代一般人には「ほとけ」と同格のイメージが強いと思うのですが、
なにゆえ生身の人間を菩薩と呼ぶのか・・・
それはこーゆーことだったんですね。

そうしたことを踏まえると、最澄たんがどういう気持ちで「山家学生式」を書いたのか
感覚的に理解できそうな気もしてきますが、その全文はもそっと後で紹介しましょうね。


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最終更新日  2018年01月08日 17時46分33秒


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