カテゴリ:江戸めぐり
染井霊園には、堤の名残がある。
まだそれを見たことがなかったので、一旦北の外れまで行ってみたけど それらしいものは見当たらなかった。 あれ、この辺じゃなかったかな・・・ あとで看板で確認しよう。 で、そこから西へ向けて歩こうとしたら、こんな細い道だった↓。 ははっ、ミワラの細道を思い出すな 写真を撮ってから歩き出すと、向かいからバアちゃんが自転車でやって来た。 私とバアちゃんがすれ違う時に私の後ろから若い男がチャリで割り込んできたので、 バアちゃんはバランスを崩して写真右側の草むらの中に自転車ごと倒れ込んでしまった。 突然のことにびっくりしたけど、ゆっくり近寄って(←まだ走れません) 「大丈夫ですか?」 「あっぶないわね~、もう・・・ 自転車、降りちゃえばよかったわ」 しかし、かしゃんとあまりに見事に自転車ごと倒れたし、 何しろバアちゃんなのでどこかしらケガしててもおかしくない。 「本当に大丈夫ですか? 足とか痛いとこないですか?」 と聞いてみたけど、バアちゃんは毅然として 「大丈夫です。 ありがとうございます」 と言った。 とりあえず自転車には乗れそうなので、バアちゃんとはそのまま別れたけど、 大丈夫だったかな・・・ 都内、それも古い下町には結構細い道も残ってるんだよね。 母方の実家の荏原町なんかも、細いゴタゴタした道だったもんなあ。 「どんつくショック」の頃にストリートビューでその辺りの道を見たら だいぶ綺麗に整備されてたようだったけど。 霊園内の道は結構自転車も通過していくので、 ずっとこんな細道が続いたら危なくてやだな・・・と思ったら、 狭いのはそこだけで、あとはまずまずの道だった。 そのまま歩いて着いたのが、慈眼寺(場所はこちら)。 慈眼といっても、天海(慈眼大師)とは何の関係もありません。 ここの門には あ、どんつくか・・・(笑)。 ここを入ると、正面に山門がある↓。 ご覧の通りぴっちり門が閉められているので、拝観できないのかと思ったけど、 帰ってから調べてみると脇の方に別の入口もあったらしい。 ただ、今回ここに来たのはお堂の拝観が目的じゃない。 この手前左側に墓地があって、そちらは入れるように開いていたので、 ほっとして中へ向かう。 あい、ここからはしばし墓の写真が続きますよ~。 そういえば、墓マイラーのくせに最近あまり墓の写真を撮った記憶がないなあ。 いや、叡山ではそこそこ撮ってはいるんだけど、寛永寺を長々と書いてるうちに あれから半年以上過ぎちゃっただけで ちなみに、慈眼寺の塀は 3本ライン。 ネットで調べたところによると、こちらも蓮華寺と同じ元和元年(1615)の創建で、 深川から本所へ移転し、元禄の頃には身延山久遠寺の末となった歴史などがあるらしい。 さて、それじゃ中へ入ります。 慈眼寺の墓地は奥へ細長い。 入口には著名人の墓についての看板があったけど、場所を示す図はなかった。 まあ、今回ここでのお目当ては古い墓石のハズだから、 遠目からでもそこそこ形で見分けはつくだろうと歩き出す。 きょろきょろしながら奥の方へ進むと、途中に案内の標識があった↓。 こんな風に案内を出しててくれると助かるんだけどな・・・ 芥川龍之介の短編には歴史がからむ話も多いので、 せっかくだしついでに寄っていった。 こちら、芥川龍之介さんのお墓です。 なんでも墓石は彼が生前使ってた座布団と同じサイズなんだとか。 その発想がスゴイよな・・・ 私が行った時には、真新しい綺麗なお花が供えられていました↓。 著名もいいとこの大文豪なので、お墓参りするファンも多いようです。 墓石の前には、タバコや缶コーヒーなどが供えられています。 まあ、わたくしに言わせると本来これは持ち帰るべきものですが。 (「三原編(31)」参照) ネットでこのお墓の訪問歴を見ると、酒とタバコが好きだった彼のために 墓の前でタバコをくゆらせて酒を芥川と2人で飲んだ、と書いてるファンもおられて、 楽しみ方は人それぞれなようです。 墓の前でタバコを吸って酒を飲むなんて、不謹慎な! って思う方もおられるかもしれませんが、 すぐにゴミとなってしまうだけのお供え物を放置して帰ってしまうよりは よっぽどいいような気がしますけどね。私は。 芥川の墓の先には、これがある↓。 【司馬江漢墓 江戸時代後期の洋風画家で蘭学者。安藤氏の子として延享4年(1747)江戸四谷に 生まれた。名は安藤吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻(しゅん)に改めた。 字は君嶽、江漢は号である。 はじめ狩野派に学んだが飽きたらず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で 「夏月図(かげつず)」などを発表した。明和7年(1770)春信没後春信の偽物を 描くが長続きせず、二世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して美人画を多く描いた。同時に 平賀源内の紹介で南蘋派(なんぴんは)の宋紫石(そうしせき)に学んで漢画を習得した。 安永年間秋田蘭画の指導者小野田直武から洋風画の教えを受け、天明3年(1783) 腐触銅版画(エッチング)の創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年 (1818)10月21日72歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが 寺院の移転により改葬された。 著書には『西洋画談』『春波楼筆記(しゅんぱろうひっき)』『和蘭通舶(おらんだ つうはく)』などがある。法名桃言院快詠寿延居士。墓標は生前に建てられた(文化7年) 寿塔(じゅとう)である。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) いやいや、これを観に来た訳じゃありまへん。 ここは突きあたりのようになっていて、少し左にずれてさらに墓地は続く。 ちょいとマイナーなお人ではあるので、案内板や解説版などは期待してないけど、 もしかしたらそーゆーのが出てるかもしれないな・・・ んで、目をこらしながら奥まで行っていたけど、ない・・・。 見落としたか? いや、案内らしきものは芥川と司馬江漢の墓しかなかったハズ。 しょうがない、あとは古い墓石があったらひとつひとつ見ていくしかないな。 そう思って、入口まで探しながら戻ったけど、やっぱり見つからない。 途中、慈眼寺の墓地の向こう側に立派な宝篋印塔があるのが見えた↓。 なにアレ・・・ あれは染井霊園の区画だな。 あとで寄れたら寄ってみようかな。 それより今はお目当てじゃ ハア、こうなったら先人の訪問記で写真があれば、 それを手掛かりにして探すしかないな。 で、探したら墓の写真を公開してる人がいた。 すまほのいいところは、写真を自由に拡大できること。 墓の周りに目印となるようなものが写りこんでないか拡大して見たら、 区画表示が近くに映っていた。 おお、これはいいぞお~。 区画が変わってる可能性もあるけど、とりあえずこれを目当てにまた奥まで戻る。 しかし、やっぱり見つからないんだあ~ どうしよう、墓地内にあるのはわかってるのに・・・ 炎天下の墓地で困り果てて再度墓の写真を見て、ふとある事に気が付いて 司馬江漢の墓まで戻ってみた。 したら、あった!ありました。 上の司馬江漢の墓の写真をもう一度見てください。 標識がこういう置き方をされているので、左右ともに関連のある墓石かと 思い込んでましたが、左だけが江漢の墓で、右がわたくしのお目当てだったんです。 いや~、確かに左の墓石には「江漢司馬峻之墓」とあるけどさ、 まぎらわしいから標識は墓の左側に置いて欲しかったな。 拍子抜けもいいとこですが、こちらが本来のお目当て、 吉良家家臣の小林平八郎さんのお墓とされるものです↓。 こちらは裏面のようで、何か彫ってあるけど、一部摩耗していて全文は読めない。 で、表側の方は 拡大して、かろうじて文字が読める。 「小林平八郎平央通霊廟」とあるようです。 平?本姓は平なのか? だとしたら、「央通」は諱(いみな)かな。 あれ、これって、吉良上野介義央の偏諱? ウィキペディアには、平八郎は通称で諱が央通(ひさみち)だとある。 慈眼寺での法名は「通玄院恵澄正脱玉円日融信士」であり、 吉良家の墓所がある中野の万昌院とは法名が違っているらしい。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年08月02日 22時49分14秒
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