カテゴリ:旅日記(中国)
雨の中、上宮目指して歩く。
簡単な雨対策はしてきたし、山の中に入れば木が雨を遮ってくれるだろうから、 まあ大丈夫だろう。 歩いていくと、結構民家があることに驚いた。 うっわ~、ここ、思いっきりかつての興隆寺の境内だよ。 こんなとこに住めるなんて、羨ましいな・・・ 私もここにお家、欲しいな~。 そしたら毎日、妙見社のお掃除でも何でもしちゃうのに・・・ とかあらぬ妄想に浸りながら歩いてくと、森の入り口に着いた。 ここから山道。 結構降りだしてきたので、山用のスパッツを出して装着。 雨をしのげるような場所は付近にはなかったので、 傘をさしながら装着するのはなかなか大変だった。 足ごしらえが済んだところで、いざ、上宮へ!! と勇んで歩きだしたら、ハチに思いっきり遮られた。 入り口の道でこれじゃあ、この先もちょっとヤバイかも。 山登りをしてた頃、基本的な知識としてハチのことも勉強したし、 一人の時、こーゆー場面では特に無理はしない事にしているので、 仕方なく上宮は諦めた。 初日のマムちゃんといい、山口は自然が多くていい所だけど、 お楽しみをこうして奪われるのはちょっとね・・・ まあ、元々上宮は神聖な場所だったし、 気安く来んな!!って神様の思し召しなのかも。 そう自分に言い聞かせながら、森の入り口から走って逃げて、 離れたところで苦労してつけたばかりのスパッツを外す。 あ~あ、せっかくつけたのに・・・! つけるの大変だったのに・・・!! がっかりしながら、ずんずん興隆寺の境内を出てしまったので、 だいぶ後になってから、興隆寺の住職様にお礼を言ってくるのを 忘れたことに気がついた。 住職様からは名刺を戴いてたので、宿に帰ってから電話でお礼を言ったら、 またまた優しく応対して頂いてとっても嬉しくなった。 まあ、今回上宮には行かれなかったけど、 いずれ義興さんの墓参りのリベンジに冬に来るつもりだから、 その時にまた興隆寺にも来よう。 それより、大内氏にゆかりの深い興隆寺でとってもいい思いをさせてもらったから、 なんだか大内の殿様方にごほーびを戴いたカンジ 色々と番狂わせも多かった今回の旅だけど、 興隆寺に来て良かったなあ。 さて、せっかくここまで来たのだから、 もうひとつ大内氏にゆかりの深い寺へ行っちゃおう。 墓参りもしたいしな てんで、山を回り込んで西に歩き出す。 宿を出てからずっとトイレに行ってなかったので、 うう、トイレどうしよう・・・コンビニもないしな・・・ と思いながらガマンして歩いてたら、途中の公園にトイレがあった。 この時ほど、公衆便所をありがたいと思ったことはない(笑)。 スッキリしたところで再び歩き出し、着いたのは乗福寺(場所はこちら)。 え~と、なんか木が茂ってて入り口がわかりにくいけど、 このまま奥へ進んでいけばいいのかな? あ・・・石垣と土塀が見えて・・・ アレ?何か変・・・ はわわわ・・・!! どべ、どべ、土塀があ~!!! あまりの光景にしばし呆然となるも、 土塀の中身なんて滅多に見られないし、この衝撃をツイートしなくちゃ・・・!! ってケータイを取りだしたところで、手を滑らせて角から思いっきり ガコーン!!とケータイが落っこちていった。 ・・・と、とりあえず壊れはしなかったけど、 まだ機種変更して何カ月も経ってないのに、すごい傷付けちゃったよ~!! ちょっと動機が不純だったか・・・ いやしかし、これは確かな現実で、別に画像を捏造した訳じゃない。 寺院の維持管理ってのも大変だよな~ってしみじみ思ったね。 崩れた土塀の間にある山門を抜けると、正面にすぐ本堂。 【乗福寺の由来 山号を南明山といい臨済の古刹である。本尊は観世音菩薩、開山は盧峰和尚、開基は 大内重弘である。元応2年(1320)3月重弘を当寺に葬った。延元元年(1336) 北朝が本寺を勅願寺とした。 貞和元年(1345)足利氏が諸国に安国寺利生塔を定めたとき、当寺をもって周防国の それにあてた。しかしその後火災にかかり荒れてしまったが、享録年間(1530頃) 大内義隆がこれを復興した。 寺伝によれば塔頭26、末寺88箇所もあったというが、大内氏滅亡後衰微した。 毛利氏の時代になり、本寺は解かれて博多に移築された。そして寺跡には小庵を建て わずかにその名を存していたが、寛文8年(1668)焼失した。そこで塔頭の正寿院を 転じて乗福寺とし、今に及んでいる。 幕末、坂本龍馬が当本に於て長藩士と薩長連合の相談をしたことは有名である。 寺の後方に大内氏の始祖琳聖太子の墓、開基重弘の墓、山口開府の恩人 大内弘世の墓 などがあり、また最近整備された学都山口の祖 上田鳳陽や服部東陽の墓がある。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) 大内重弘(?~1320)は、以前「山口編(4)」に載せた系図には載ってませんが、 ひろよん(弘世)の爺様にあたる方です。 上の解説には非常に控え目なことしか書いてませんが、 ここも大内氏とゆかりのふかぁ~い寺です。 だって、まず琳聖太子の墓があるんだもん。 ここまで地道に山口編を読んできて下さった方には、この1点だけでも 「おお、なかなかのポストにある寺なのか?」 って想像はつくんじゃないでしょうか。 平安時代後期・後白河法皇の院政時代、周防は法皇の知行国。 平家滅亡の後は、東大寺大仏殿の再興のために法皇から東大寺へ寄進される。 東大寺の造営が完了すると、また○○寺の○○造営のため、それが終わると ××寺の××造営のため・・・といった風に、所有者が転々と変わっていった。 1230年頃になると、再び東大寺が 「ヘイ!カムバック、スオー!!」 とばかりに周防獲得運動を起こし、半ば強引に我がものとしたそうな。 在地の有力者と、中央から派遣された管理者との衝突は色々あったが、 重弘は特に東大寺の国務と激しく対立したという。 結局、東大寺から派遣された人の罷免に成功しちゃうんだから、 ひろよんまでの時代は周防国衙の在庁官人だったとは言っても、 トップが色々移り変わるスキを狙って、着々と勢力を蓄えていったってカンジかな。 ↓また「ぽち」をよろしくね~。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年08月31日 17時42分13秒
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