カテゴリ:旅日記(中国)
前回条里制の説明なんかしたおかげで、雑談が1話で終わらなかったので(笑)、
今回もその続きです。 何しろ、このブログは私の備忘録でもあるので、 思った事とかはなるべく書き残しておきたい。 て事で、今日は変わった看板の紹介から。 西条の駅前からまっつぐ延びる大通りは通称・ブールバール。 広くて綺麗な道なんだけど、この通り沿いにこんな看板があって、 思わず激写(笑)。 ・・・・・・・・・。 笑っちゃいけない内容だと思うけど、笑える~!! 旅先でのこーゆー出会いがたまりませんわ・・・。 この通りには警察署もあって、綺麗で立派な建物。 やっぱり東広島っておかねもちなんじゃ・・・ (たぶん)わたくしは悪人ではないと思うんだけど、宿の近くに警察署があるってだけで なんか緊張する。 連行されないように、身を慎まねばならんな・・・ ところで、今回は狭いエリアを丁寧に歩くというパターンではなく 西条を拠点にあちこち移動するというスタイル。 バスを色々調べてるうち、西条駅から出てるバスに 「豊栄行き」というのがあった。 豊栄(とよさか)という地名があるのを初めて知ったので、 私は少なからず驚いた。 もう覚えてる方もいないでしょうが(笑)、 「山口編(16)」で訪れた毛利元就を祀る神社、 あれが「豊栄神社」なんですね~。 しかも、地図を見ると豊栄には「乃美」という地名もある。 私はまだ、小早川家の家臣の領地などについては具体的に把握してないんだけど、 この地名からすると乃美氏はたぶんこの辺りを治めてたんだろうな。 乃美氏で著名なのは、小早川水軍の提督として隆景ちゃんの元で活躍した 乃美宗勝。 それから、元就に嫁いだ乃美大方(のみのおおかた)。 乃美大方は四男・穂井田元清、七男・天野元政、九男・毛利秀包を産んだ。 元清様は岡山編あたりで何度か顔を出してます。 秀包(ひでかね)様は、「大津編(12)」 と「小早川隆景の知名度」あたりに ちょろりと書いたのかな。 秀包様は、一旦備後国人の養子となった後に、 子のなかった兄・隆景の養子となった方。 兄弟といっても、34歳もの開きがあるからね~。 立派な親子の年齢差。 秀包様が生まれた永禄10年(1567)は、 隆景ちゃんが三原城の築城を開始したと一般的にいわれてる年。 長兄の隆元に至ってはすでにこの世を去っており、顔をあわせてもいない。 唐突ですが、戦国武将に必要なものは何だと思いますか?と聞かれたら、 あなたなら何と答えますか? Aさん:先見の明! Bさん:それを現実に役立てる、冷徹な実行力。 Cさん:強力なリーダーシップとカリスマ性も必要だよね。 はい、おっしゃる通りですね。 しかし、徳川家康を見てると寿命も必要(豊臣家をつぶすまで執念で生き抜いた) だと思うし、毛利家を見てると繁殖力も必要だな~とつくづく思うんだよね。 (家康も子は多かったが、色々混ざってた) 私は最近、元就さんに「ビッグダディ」ってあだ名をつけたんだけど(笑)、 ビッグダディは確かにものすごい人だった。 しかし、彼の王国造りを支えたのも、また維持に大きな力を発揮したのも、 数多くの優秀な息子たちだった。 その優秀な息子のうち3人の子を産んだ乃美大方の出身地が豊栄・・・ これは、豊栄神社の名称と何か関連があるのか!? と思ったんだけど、自分の記事を読み返してみると 「豊栄」の神号を与えたのはあくまで朝廷ってことになってるしな・・・ しかし、なんでまた「豊栄」って神号にしたんだろう? 豊かに栄えるだから、めでたい号ではあるけど。 神号を賜ったのも、明治2年だしなあ・・・ なんだけど、妙に気になる・・・ 今度行ったら、社務所に寄って由緒書をもらってくるかな。 たぶん、同じ事しか書いてないとは思うけど。 最後は、太閤殿下のご登場です。 「小早川家文書」に「豊臣秀吉上洛泊次第写」というのがある。 これは「三原城(7)」でも簡単に紹介してるけど、 秀吉が肥前名護屋から上洛する際のお泊りのスケジュール表で、 秀吉の自筆とされているもの。 本文の前に、 「コノ文書ハ、天正廿年、若クハ文禄二年ノモノナルベシ」 と注釈がある。 天正20年(1593)は文禄元年でもある。 あれ、これって・・・赤間ヶ関で殿下が死にかけたアレか!? って思ったけど、あの時は海路って聞いたんだけどなあ。 いやでも、小倉を出て次は長門の「関」ってなってるから、 溺れかけてここから陸路に切り替えたとか(笑)。 関って言っても上中下あるから、どの関かまではわからないけどね。 そういえば、亀山八幡宮で参拝記念に能を奉納したとか ソテツを植えたなんて話があったな・・・ いやいや、もしこれが病気の大政所のために急いで帰る行程だったら、 そんな悠長なことはしないだろ。 亀山八幡宮に参拝したのは、きっと行きの時だな。 うんうん。 ま、とにかくその遠足のしおりは、「ふかえ(深江)とまり」の筑前から始まって、 名島~宗像~蘆屋~小倉と来て本州へ渡り、長門・周防を経由して安芸。 おかたとまり ひろしまとまり さいてうとまり ミ王らとまり ・・・で摂津兵庫までの計24箇所の宿泊地が書き出されている。 あっ、ミワラ(ミ王ら)は備後だけどね(笑)。 おかた(小方)は広島県大竹市の小方かな? 大竹市玖波(くば)町の西国街道沿いには、「太閤の振る舞い井戸」なんて 史跡もあるらしいし。 その井戸の水でお茶を点てて殿下に差し上げたところ、 大層喜ばれたという話が残っているそうな。 で、ひろしま(広島)に泊まって、次がさいてう(西条)・・・ 広島は、やっぱり広島城でしょうね。 出土品からも、殿下の宿泊所としての位置付けだとする説もあるくらいだしね。 わかんないのが、西条のステイ先。 一体、どこに泊まったんだ? この辺りは殿下を迎えるような大きな平城はたぶんないと思うし、 すでにある程度は殿下の城割令によって山城も整理されてたんじゃないかと 思うけどね。 私が知らないだけかもしれないけど、ひとまず 殿下ご逗留のために御殿とかを新築したって話は聞いたことないし。 とすると、あとは寺か。 西条付近の大きな寺もいくつか行こうと思ってたけど、 今回は結局福成寺しか行かれなかった。 でも、見た感じ大きくて格がありそうなのは、やっぱり安国寺? 福成寺も昔は安芸でかなり栄えたって看板に書いてあったから、 可能性としてはアリだよな。 輝元が泊まったりもしてるくらいだし。 ただし、山の中だけどね。 う~ん、わからん・・・ ひとまず、西条に関してはこの位かな。 あ、そういえば鏡山城のところで書くのを忘れたんだけど、 平成24年12月1日に鏡山南西の「ががら山」で現地説明会が行われたそうな。 【外敵の侵入を防ぐために自然の傾斜を利用して整地し、溝や柱を立てた跡を確認。 鏡山城の外も広範囲に守っていたことなどを学んだ。 縄文時代に動物を捕獲していた落とし穴跡も見て歩いた。】 (’12/12/2付 中国新聞より) 地図には「ががら山」なんて書いてないからはっきりとはわからないんだけど、 御殿場から南西に見えたこの山がそうなんじゃないかな。 って、鏡山城シリーズの方に追記しとけって?(笑) 鏡山城といえば、山麓と城内でつぶれたドーナツを食べた事を書きましたが、 朝起きたら、台所にドーナツが置いてあったんだよね。 夜のうちに近くに住む義兄が持ってきてくれたらしいんだけど。 知らないお店のドーナツだったけど、後から聞いたら 埼玉のナントカってショッピングモールに出店してる有名なお店らしくて、 マメな人だからわざわざ買いに行って並んでゲットした貴重品だったらしい。 うちは全員そーゆー事にうといので、そんなありがたいモノだとはつゆ知らず、 私はつぶれるのを承知の上でザックに入れたし、平気でつぶれたドーナツを 誰もいない城跡で食べていたという、義兄が聞いたら涙を流すんじゃないかって オチが付いてきました。 無神経な娘の母はやはり無神経で、購入経路を聞いた時、 「暮れの忙しいのに、そんなとこまで行ったんですか~!?」 って爆弾発言をしたらしいし すいません、お義兄さん・・・ さて、前回のスーパーに行ったところまで話を戻すと、 その後でコンビニに行って晩御飯のラザニア(←年越しそば)を買って宿へ。 宿は広くていい部屋だったけど、エアコンの所に 「温風が出るまで約7分かかります」 と書いてあってたまげた 冷え切っていたので、部屋の中でもしばらく上着を脱げませんでした。 この日の歩数は17,445歩。 半日の割には、まあまあ歩いたよな。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年02月11日 15時47分05秒
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