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2013年10月17日
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カテゴリ:城(中国)
要害山城<広島県福山市神辺神辺町字徳田>
(住所をクリックするとMapfan Webにリンクします)


※「福山編(23)」の続きです。


天満神社を奥へ進むと、舗装路が広がる。
どうやらここまで車で上がってこられるらしい。
てことは、山麓のお堂で小休止したあと、私は道から外れて
竹林の中を歩いてきたけど、あのまま道路を登ったらきっとここに出られたんだろうな。

道路を挟んで神社の裏っかわには歩道がつけられていた↓。


      福山・神辺・要害山城へ



      福山・神辺・要害山城30



ヨシ、これだなダッシュ

ゆっくり歩いても5分もしないうちに、前方が開けてきた↓。
おっ、いよいよか?


      福山・神辺・要害山城



上がりきる手前の斜面↓。
ここまでの道の脇は、ずっとこんな感じで草ボーボーだった。


      福山・神辺・要害山城2



ところが、これを上がりきるとそれまでとはうって変わった
実に感動的な光景が広がる↓。


      福山・神辺・要害山城3



うわあああ~、ナニコレえええ~~~!!

この光景は、先人の訪城記で写真で見ていた。
が、やっぱり実物は写真とは比べ物にならない。

もう、大げさだといわれようが、
それこそまばたきするのも息をするのも忘れるくらい
小さい目を見開いたまま、要害山城の心臓部へと足を踏み入れた。



・・・で、もったいつける訳じゃないですが、
まずは要害山城の沿革から。

この城は、一般のお城ファンの記事では宮氏によって築かれたものとして
紹介されることが多い。

あれ?
そうなの?
と思って手持ちの『日本城郭大系13 広島・岡山』を見てみたら、
「天神山城」として以下のような説明があった。

 【城の歴史は明らかではないが、南北朝期に宮氏によって築城されたものと考えられ、
  室町期には神辺城主山名氏の家臣山名清左衛門尉時英が居城している。
  また、天文十六年(一五四七)の大内・毛利両氏による神辺城攻撃の際、
  神辺城の外郭として、宮次郎左衛門尉の守るこの城が攻撃され、落城した。】


郷土史料などを基にこうした記述になってはいるようだけど、
田口義之氏は『要害山城の価値』の中で、

 【記録から見て、この城は天文一七年(1548)に築かれ、翌年の九月には放棄された。
  県内1千ヵ所に及ぶ中世山城の中で、これほど残された遺構の年代がはっきり
  分かる例はない。(中略)

  国人の居城クラスの山城は、郡山城と同じような改修を経て、今日に至っている。
  要害山城跡のように、天文一七年という特定の年代に築かれたことが判明し、
  直後に放棄され、今日まで手が加えられていない、というのは大変まれな例
  なのである。】

と語り、それゆえに「奇跡」だと表現しておられる。


要害山城のある要害山のすぐ東には、山王山という小山があり、
そこには宮氏が築いた山王山城があった。
だから、山王山城と混同してるんじゃないかなって気もしたんだけど、
すぐ隣の山ではあるから、山王山城の出城とか砦のようなものぐらいは
要害山にも置かれた可能性はある。


『日本城郭大系』の解説にある「大内・毛利両氏による神辺城攻撃」は
もちろん神辺合戦のことで、要害山に向城を築いたあたりの経緯については
「神辺城(12)」に書いてますので、忘れた方はそちらをご覧ください。

世間では陶隆房が神辺城攻めの大将として備後まで来たように書かれてるけど、
私は神辺城シリーズで何度か書いたように、
隆房本人は出張ってきてないだろうと思っている。
少なくとも、天文18年(1549)春には備後にはいなかったといえるだろう。

そう考えるおもな理由も「神辺城(12)」の通りですが、
仮に山口でのおもてなしスケジュールが間違ってたとしても、
もし隆房が神辺にいたんであれば、山口へお伺いを立てなくても
その場で平賀隆宗に任せるという決定ができたんじゃないかと思うんだよね。

だから、隆房がなんで神辺攻めの総大将とされたのかは不明だけど、
あるいは陶隆満とごっちゃになったんじゃないかとか、
いろんな想像(妄想)が自然と湧いてきます泣き笑い


要害山城が築かれたのが、神辺城攻めが本格化した天文17年(1548)なのか
平賀隆宗が城攻めを引き継いだ天文18年なのかはわからないけど、
まあそれなりの大軍ではあったはずだから、
天文17年の方が妥当かな・・・って個人的には思う。

天文17年であれば、大内軍の本陣が置かれた可能性だってある訳だし、
あるいは陶隆満・青景隆著や小原隆言などの
神辺城シリーズの歴バナで何度も顔を出した面々もここにいたかもしれないくま
(↑また妄想)


さて、大内氏重臣の皆様がここにいて欲しいのはヤマヤマですが、
少なくとも平賀隆宗はここにいた。
そしてここと神辺城の間で、「神辺城(13)」「14」で紹介したような
バトルが繰り広げられていたのだろう。

はい、要害山の名称に覚えのある記憶力のいい方もおられたかもしれませんが、
「神辺城(29)」の8郭付近から眺めてぼんやり萌え~していた、
あの小山がここです。


要害山城、もしくは要害山の南麓の郭は「秋丸」と呼ばれたという。
最終的に神辺城攻めを引き受けた平賀氏が安芸国人だったから
秋(安芸)丸といわれたなんて愉快なエピソードもあるけど、
それだったら毛利氏や小早川氏がここに陣取ったって「秋丸」になった訳だよな泣き笑い
て妙なツッコミを入れたくなるのはわたくしだけでしょうか・・・


まーまー、それはともかく、ここに平賀の隆宗様がいらした・・・
『陰徳太平記』での「舎弟の隆祐」が誰だか相変わらずわからないんだけど、
おそらく新九郎広相のことだよな。

あるいは隆祐から広相に改名したのか!?
とも思ったんだけど、結局わからなかった。

兄弟そろって大内義隆から偏諱を受けた例は毛利家などにあるし、
平賀氏なら年代的に広相が「隆」の字をもらってたっておかしくない。
てか、もらう方が自然じゃないんだろうか・・・
なのに、なんで「広相」なのか、ちょっと不思議な気がしてしまうのです雫

一体、「広相」ってのはどこから来た名前なんだろう。
隆保の平賀家相続があったから、広相は隆の字をもらえなかったのかとも
一瞬考えたけど、隆保が平賀家に来た頃はとっくに新九郎は元服してるはずだから、
すぐその考えを打ち消した。


あっ、すいません。
またもんもんロードに入りかけました(笑)。

ここから隆宗は神辺城攻めを続行し、推定25歳頃に陣中で病没した・・・
あれ?
てことは、ただいただけじゃなく、
ここが隆宗様ご臨終の地にもなる訳か?ショック

まだ神辺城も落とせず、若い身空でさぞ心残りだったろう。
合掌。



さてと、お待たせしました。
現地での感動的な光景に戻りましょう。

左手に進んで振り返ったところ↓。


      福山・神辺・要害山城4



要害山城主郭部は、南北に長い楕円形をしている。
入口は3ヶ所あり、上の写真のすぐ先が南西の虎口↓。


      福山・神辺・要害山城5



      福山・神辺・要害山城7



ちょうど草を刈ってくれて間もない時期だったようで、
あちこちに干し草の山が積み上げられてる。
上の写真の正面にも小さな盛り上がりが見えますが、
これも干し草の山です。

まずはここから郭内部へ侵入~。


      福山・神辺・要害山城9



奥の建物は石鎚神社。
かつてここは古墳だったようで、神社拝殿の下からは
埴輪が出土したらしい。
神社の向かって左手には、土塁がある↓。


      福山・神辺・要害山城11




同じ場所から振り返ると


      福山・神辺・要害山城10



郭をぐるりと取り囲むように、土塁が綺麗に残ってる。
いやん、カンドー目がハート



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最終更新日  2013年10月17日 23時32分52秒
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