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戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年02月27日
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カテゴリ:旅日記(近畿)
浄土院を出て一旦正門前まで戻り、最初にスカートの姉ちゃんが進んだ
浄土院の脇の道へ入る。
ここはあまり道らしい道でもないので、正門の前に石碑がなければ
ちょっと気付かないかもしれない。

脇の道から見えた浄土院拝殿の妻↓。


      叡山2・東塔・浄土院97


少し歩くと右手に分岐が出たので、ここを上がっていく。


      叡山2・東塔・別当大師廟7


目指すスポットは目立たない場所にあるので、あまり歩く人もいないらしい。
綺麗に生えているコケをなるべく踏まないようにしながら、
こんな道を奥へと歩く↓。


      叡山2・東塔・別当大師廟5


たいして歩かないうちに、次のお目当てに着いた。


      叡山2・東塔・別当大師廟



      叡山2・東塔・別当大師廟2



      叡山2・東塔・別当大師廟3



      叡山2・東塔・別当大師廟4


これが別当大師・光定(こうじょう)さんのお墓です。
ここも東塔西谷にあたると思うんだけど、
この場所にはこの廟がぽつんとあるだけ。

お堂の造りも実にシンプルなもので、ぐるりと一周してみたけど
扉のようなものはないようだった。

「大師号」は勅賜として朝廷から高僧へ賜わるもので、
延暦寺の僧、および延暦寺出身者から多くの大師が出ている。

最初の大師号は貞観8年(866)、円仁の死から2年後のことで、
天台宗から円仁(慈覚大師)と最澄(伝教大師)がダブル受賞した。
最澄の死からは44年が経っていた。

で、光定さんは一般に「別当大師」と呼ばれるものの、
これは正式な大師号じゃない。
ので、まあ言うなれば天台宗内での私称みたいなものになるのかもしれないけど、
勅許による大師号を受けていない光定さんがなぜ別当大師と呼ばれるかというと、
彼の功績が大きかったからに他ならない。


光定さんは宝亀10年(779)、伊予に生まれた。
最澄より13歳年下。
初代座主・義真よりは2歳年上で、2代座主・円澄よりは7歳年下。

郷里における光定の経歴についてはあまり詳しいことはわかっていないらしいが、
早いうちに両親を亡くし、出家して山岳修行をしていたらしい。
四国霊場第60番札所の横峰寺では開山第2世を光定としているらしいので、
石鎚山系あたりで修行に励んでいたともいう。

そんな彼が都での勉強を勧められ、上京して師を探していたところ
最澄の噂を聞いて29歳の時叡山に登った。
そこで天台の勉強を始めるものの、なぜか天台大師・智ギの『摩訶止観』を持って
奈良の大安寺の勤操(ごんぞう)の元へ法華経を学びに向かったそうな。

勤操は最澄の歴バナの終わりの方で何度か顔を出していますが、
三論宗の雄。
ただ、多くの渡来僧がそうであったように当時は諸宗兼学といって
色々な学派を学んでいたようだし、勤操は最澄の高雄講会よりも早い時期に
法華八講を催したりしているので、法華を学ぶなら勤操の方がいいと思ったのかもしれない。

しかし、勤操が言ったのは「あちこちで学びちらかすよりも、
すぐ最澄たんの元に帰って一心に努力しなさい」というものだった。
その後は叡山において修行に励み、最澄たちが空海に潅頂を受けた際、
光定も一緒に受けるなどしている。


最澄は叡山に九院を造るという構想や、その他大きな夢を持っていた。
その夢に向かって朝廷へあれこれ働きかけたのが光定。

最澄からの信頼も篤かったらしいが、最澄が一旦は後継者に円澄を指名したのに
その後義真に変更した時などは、

「ええ~、前に円澄に決めたじゃないですかあ~!
どっちに従えばいいんですか!?」


と最澄の真意を聞き返し、

「ええ~、そうだけどさ・・・
義真の方が先に受戒してるから、
やっぱ義真にしようよ」


と言われてそれに従ったというエピソードがある。

初代座主・義真の死は突然だったようで、その後の後継者問題は
以前の記事でも少し書いてますが、義真の弟子の円修が後継者として振る舞っていた。
光定はこれに異を唱え、円澄を2代座主にしたいと朝廷に進言した。

結局、円修一派は山を降り、円澄が第2世座主におさまって
一旦は落ち着いたものの、わずか3年ほどで円澄はこの世を去る。
この頃、光定は内供奉十禅師に選ばれている。

円澄の死後、長いこと座主は空位のままだった。
円仁が唐から帰って第3世座主となるまでの間、光定は伝燈大法師位となり、
授戒の戒和上にもなり、光定が授戒を行っていたという。
ここから、この頃は最澄の直弟子の中でも特に光定が重きをなしていたことがわかる。

仁寿4年(854)、文徳天皇の勅によって延暦寺別当に任じられる。
「別当大師」というのはここから来ているらしい。


光定は文徳天皇の父で先帝の仁明天皇からもずいぶん目をかけられたそうで、
ある時仁明天皇がからかって

「天台は真言の引き立て役みたいな
もんだよねうっしっし


と言ったところ、怒った光定はすぐさま帰ってしまったという。

また、ある時叡山に稲が少ないことを光定が奏上すると、仁明天皇は
「光定乞食袋」と書いた袋を与え、中には食料が詰まっていたなんてエピソードもある。
これをモチーフにしたものなのか、大黒さんよろしく背に大袋をかついだ
「光定大師立像」(延暦寺所蔵:重要文化財)という像もある。


延暦寺別当になった仁寿4年(854)、文徳天皇の国家鎮護の発願により
九院のひとつ、四王院を建立する。
ただ、叡山の史料では四王院の創建は天長5年(828)に文徳天皇の御願によると
しているので創建の時期は定かではないものの、東塔の一院でありながら
天皇の御願寺という高い格式を持っていたらしい。

文徳天皇からも信任を得た光定は、天安2年(858)7月、
80歳(実年齢は79歳)の祝いとして朝廷から度者や布・米などを賜る。
その翌月、八部院にて79歳の生涯を閉じた。



光定の叡山での奔走の経歴を見ると、光定が第3世の座主になっても
何の不思議もない。

第2世・円澄から第3世・円仁の就任までは18年もの月日が流れているから、
光定がその気になれば第3世に就くことも可能だったんじゃないのか。
だけど、彼は座主にはならなかった。
おそらく本人にその気がなかったのだろう。

座主にもならず、大師号を受けることもなく、
光定の名は現在では一般にはほとんど知られていない。
が、最澄の死後、最澄の高弟たちの中でも特に延暦寺の継続・発展に
文字通り奔走した「幻の大師」ともいうべき光定の功績を称えて
「別当大師」と尊称されているのかもしれない。


別当大師廟を出て少ししたところから西の方を見ると、


      叡山2・東塔・別当大師廟6-2


最澄の眠る浄土院の御霊屋は目と鼻の先。
死後もなお、光定さんは最澄たんに寄り添う場所にいる。

この別当大師廟がいつここに建立されたのかはわからないけど、
もし初めからこの場所にあったのなら、やはり最澄も最初から浄土院の場所に
埋葬されたんじゃないかという気がする。

最澄が浄土院の場所に眠っていたからこそ、
光定の廟もここに造られたんじゃないのかと思った。


そして再び浄土院の正門前へ戻る。
もう14時を回っちゃったけど、浄土院で大満足したから夕方までここにいたいな・・・
そう思って門前でまったりしていたら、空は晴れてるのに突然風花が舞った。

他の場所でも同じように急に風花が舞ったことがあったけど、
こういう時、不思議となんだか歓迎されているような感覚を覚える。

本坂を歩いていた時も思ったけど、昔だったら女人禁制の叡山に登ることはできなかった。
でも、今はこうして登山道を歩いたり、最澄廟に詣でることもできる。
いい時代に生まれたもんだ~と素直に喜んだ。

ところで、かつての女人禁制の山も現代はほとんど開かれているものの、
いまだ女性にあまり開かれていない信仰の山もある。
これについて「女性蔑視だ!」と息巻くつもりもありませんが、
「にほんブログ村」の同じサブカテゴリーのメンバーさんで
山伏の若狭坊様のブログに興味深い記事を見つけました。

若狭坊様のお説は斬新というか、読んだ時目からウロコが落ちましたが、
実際に山で修験者として活動されている方の文章には説得力もあり、
言葉に深みがあります。
まあ、どちらかというと修験者として、というよりは
フェミニストな若狭坊様の優しい性格が多分に現れている内容だという気がしますが(笑)。

今回、わたくしも「聖なる魔の山」の2つのルートを歩きまして、
登山にしようと思ったきっかけは単純な萌え~だったものの、
実際に歩いてみると、「やはり叡山は自分の足で歩いてこそ」だと思った。

長い華々しい歴史を物語る主要堂宇群も、叡山のひとつの顔ではある。
けど、信仰の山として始まった叡山の原初的側面は、
山道を歩いて静かに叡山に向き合わなければ感じることはできない。

山内に散らばる各堂宇も歴史があっていいものですが、
建築好きのわたくしがロクに堂宇を見ず、それでも今回の旅に大満足したのは、
山道を歩くことがとても気に入ったからです。

今回は2つのルートしか歩けなかったけど、また叡山に行く機会があれば
別のルートを歩いてみたい。
叡山が開かれていることへの感謝の思いを抱きながら。

若狭坊様のブログ、オススメです。
リンクの許可を快く頂いたので、皆さまもぜひご覧になってみて下さい。
(「若狭坊のまちづくり日記」/「女性を崇める」へのリンクはこちら。)


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最終更新日  2015年02月27日 23時17分05秒


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