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戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年06月17日
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カテゴリ:旅日記(近畿)
遺言を書いたあと、良源さんは12年ちょっと生きた。
だからおそらくは棺とか卒塔婆とかの生前に準備しておきたいとしたものについては
自分の意思通りのものが準備できただろう。

追記についても、とりあえず前回の最後の文章だけのようなので、
葬儀から死後の法要などは基本的に『御遺告』の通り行われたものと思われる。

この時点で九条家の中心となっていた藤原兼家は7日ごとの法要や一周忌には
盛大な法要を行ったようで、その後も毎年の命日には良源さんの希望通り
八講が行われたそうな。

兼家はみずからを「白衣弟子」と称したそうで、
良源さんは九条家との強い絆を残していった。


良源さんの死の翌月、四十九日が過ぎると禅師の君が第19世天台座主となった。
その2年後、禅師の君の申請によって一条天皇から良源さんに「慈慧」の諡号が贈られた。

どちらかというと「慈恵」の字の方が一般に使われる気がするけど、
一条天皇の勅書の原本は存在しておらず、
勅書に「慈慧」と「慈恵」のどちらの字が書かれていたのかはわかっていない。

小野宮実資も諡号が贈られたという記事を『小右記』に書いていて、
そこでは「慈慧」の表記となっているものの、これもまた原本が存在しないので
どちらの字が正しかったのかはわかっていないらしい。


さて・・・
天台宗で「大師号」を受けたとされる方、およびわたくしが知っている
天台宗内での私称の「大師」を「(113)」で紹介しましたが、
このうち良源さんは一般的には「正式な方」に分類される。

しかし、実際良源さんが受けたのは「慈慧(恵)」の諡号で、大師号は受けていない。
生前の良源さんの最高の僧官は「大僧正」だから、
『慈恵大僧正御遺告』のように「慈慧(恵)大僧正」が正しい。
梵照の『慈恵大僧正拾遺伝』などもきちんと「大僧正」と表記している。

試しにウィキペディアで良源さんを検索してみると、
諡号は「慈恵大師」となっているけど、賜わったのは「慈慧(恵)」だけ。

個人的には大師でも大僧正でもどっちでもいいんだけど、
なんでこんなことになっているのか最初は驚きました。

歴史的な流れを追っていくと、まず19世座主は禅師の君。
20世になった余慶さんは「永祚宣命事件」の波乱のスタートを切ったが、
結局3ヶ月ほどで辞任。
21世は良源さんの弟子ではない円仁派の僧侶で、
22~26世までは良源さんの弟子が座主となった。

次の27世・慶命(きょうめい)は良源さんの系統ではない円仁派僧侶だったが、
わずかに晩年の良源さんを知っていた方だそうな。
慶命は良源さんの死から43年後(1028年)に天台座主となり、
その2年後の長元3年(1030)に良源さんの霊を供養し、
良源さんを称える文を捧げている。

どうもこの慶命の供養がきっかけとなって良源さんの伝記として最もポピュラーな
『慈恵大僧正伝』が編纂されたようなんだけど、慶命は供養文の中で良源さんを
「釈迦如来之重出、慈覚大師之再誕」と思いっきり持ち上げて良源さんの加護を期待している。
そして「慈慧大師」と呼んでこれがそもそもの発端のようなんだけど、

 【座主慶命が行った山内での私的法会であったこともあり、追慕のあまり
  私称したものだろう。】
  (『人物叢書 良源』より)

と平林氏は語る。

その直後に編まれた『慈恵大僧正伝』や『慈恵大僧正拾遺伝』では
正しい表記になっているものの、しばらくするとぱらぱらと大師の称が現われるようになる。
良源さんのために営まれる法会で使われる式で源信や覚超などの
良源さんの弟子の作といわれるものがあるらしいが、
実のところそれらは鎌倉期以降に作られたもののようで、
死後まもない頃から「大師」と呼ばれていたという証拠にはならないんだそうな。

確実に良源さんが「大師」と呼ばれていたことがわかるものとしては
長承3年(1134)の写本だそうで、

 【こうして見てくると、慈恵大師の尊称は叡山の山内からしだいに一般にひろがって
  いったものと推測されよう。『日本紀略』には、
   (永延元年二月)十六日己酉。定故天台座主大僧正良源慈恵大師之号。
  とあって、一見この年に大師号の宣下があったように記すが、恐らく『日本紀略』
  編纂当時にはすでに編者を誤認させるほど慈恵大師の称が一般化していたのであろう。
  ただ『紀略』の成立年次は明らかではない。また『紀略』の本文校定にも問題が
  あるかもしれない。】
  (前掲書より)

つまりは人口に膾炙しすぎてついには歴史書に書かれるまでになってしまい、
それを見た後世の人間たちは大師号を受けたもんだと思い込んで
ウィキペディアに「諡号:慈恵大師」と紹介されるに至った・・・
大体そんな感じの流れらしいです。

その後の歴史の中では、大師を称していることに対し真言宗からクレームが付いたり、
江戸中期に横川の四季講堂と寛永寺に光格天皇による「慈恵大師」の宸翰を
賜わったりと色々あったが、天皇のお手になる宸翰をもって
【勅許に相当する扱を現実に受けているという】(前掲書より)説もあるそうな。
だけど、天皇が「大師」と書いたからといって大師号の勅を受けるのとは話が違う。

 【ただ『両大師伝記』(慈眼大師項)につぎのような文がある。

  大師の号は勅許なきを、山門に押て大師と称すといへる者あり、縦一宗一山、
  我意にまかせ、称するとも、いかでか其徳なき人、こゝらの人、うけひけんや、
  上一人をはじめ、宸筆をそめられ、大師と称し給ひ、下万民に至るまで、
  称し奉る事、数百年にをよべり、唐諸宗の祖師達にも、勅号にあらざれども、
  其徳により、をのづから、世挙て大師と称する人あまた侍る、たゞ至徳のなす所
  なれば、勅号にもはるかにこえたり。

  (前掲書より)

現代語訳にすると、

  お前んとこの「大師」は勅許受けてねーじゃん!て言うヤツがいて、
  確かにウチの私称だけどさ~、何の徳もない人間がそんな尊称受ける訳ないじゃん。
  上は帝から下はパンピーまで、もう数百年も大師って呼んでるくらいだしね。
  唐のお祖師にだって、勅許は受けてないけどその徳を称えて大師って呼んでる人は
  大勢いるさ~。
  私称の場合、ただ「徳」という一点だけにかかってくるんだからね。これって
  すごいことじゃん?むしろ勅許による「大師」より徳をもって称える「大師」の方が
  すごいんじゃね?


みたいな~。

これを知っていてあえてわたくしは過去の記事で「正式な大師号を受けたとされる方」に
良源さんを分類した訳ですが、もう「慈恵大師」があまりにも有名だしね。
でも別に隠すことでもないので、良源さんの大師号についての実際を紹介しました。

上の引用文に続く平林盛得氏のシメの言葉がまた心憎いんですわ~。

 【付言することはなにもない。私称大師で少しの不都合もないのである。】
  (前掲書より)

うんうん。
不都合、ないッスよ。
ええ、全っ然。


さて、良源さんの歴バナもこれで終わりです。
角をはやした骨のバケモノではなく、ふんどしを締めた牛みたいな鬼でもなく、
観音様の化身でもない生身の良源さんについて色々と書いてきました。

良源さんの功績は沢山あるものの、伝説化している部分も多くあり、
それらも紹介しつつも叡山の転換期を生きた一人の僧としての側面に重点を置いて
書いてきたつもりですが、逆説的ながら良源さんが生きた証を最も端的に示すのが墓。

ゆえに、旅の3日目の一番大きな目的は良源さんのお墓参りでした。

      叡山3・横川60・慈恵大師御廟


      叡山3・横川57・慈恵大師御廟


この灯篭は大きいので、裏には石段が取り付けられている↓。


      叡山3・横川59・慈恵大師御廟


      叡山3・横川58・慈恵大師御廟


ええと、これは来た道の方だったかな↓。

      叡山3・横川56・慈恵大師御廟


この猿馬場は、御廟を修復する際に日吉神社の猿たちが資財を運んだという
伝承にちなむ名称だという。
御廟の先の道はこんな↓。

      叡山3・横川61

山腹に付けられた道を廻り込んだところに良源さんの廟がある訳ですが、
わたくしはといえばもちろん手を合わせてご挨拶しました。
鳥居の外から。

そして鳥居はくぐらず、しばらく雪道にボケ~と突っ立って御廟を外から眺めてから
静かにまた雪道を歩き始めました。

自分の行動がおかしかったことに気付いたのは、
旅から帰ってだいぶ後になってからのことです。

「あそこに行くために中尾坂の苦しい道を頑張ったのに!
なんで中へ入らんかった!?」


しかも、拝殿の裏あたりには墓碑があったようなんです。
フツーだったら拝殿をぐるぐる廻り込んでそれこそ舐めるように見たはずなのに、
なぜかわたくしは鳥居の中へ入ろうという気は起きませんでした。
「良源様のお墓にわたくしなんぞが入れない」なんて思った訳でもありません。
しかも、そういう自分をおかしいとも思いませんでした。

疲れていたから・・・?いや、疲れてたって見るときゃ見ます。
実はここね、叡山三大魔所の一つでもあるんです。
魔所の中には慈忍和尚廟のような聖域もあったし、ここも聖域には違いないんだけど、
都の鬼門とされる比叡山の中でも横川は鬼門の位置にあり、
横川の中でも御廟はさらに鬼門にある・・・
つまり鬼門中の鬼門だとも言われますが、ちょっとここはマジもんの魔所じゃないかと
後から思いました。

自分の廟を土足で荒らすなと良源さんが言ったのかもしれないけど、
それよりもここは魔所だから気軽に入るなと言われたような気がしました。
強烈すぎるパワースポットゆえに、わたくしのちっぽけな萌え~なんぞ
かき消されてしまったのでしょう。
怖いという感覚もなかったけど、御廟を前にしてのわたくしは完全に「無」になってました。

次に行く時は、わたくしは鳥居の中へ入ろうと思うだろうか・・・
思わないだろうな、たぶん。
でもそれが良源さんの思し召しなら、素直に従います。
無理に入ろうとしたら、何か起こるかもしれない。
そういう場所でした。


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最終更新日  2015年06月17日 23時57分35秒


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