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カテゴリ:プライベート
どうも僕の印象では、女性たちは外側から来るものを躊躇なく受け取る傾向が男性より強いようだし、男性たちは自分の力でなんとかしたい傾向が女性より強いように思われる。
僕の気づきは、女性エネルギーでも男性エネルギーでもないので、どちらにも片寄らず、真ん中でその両方を見ている。 受け取りたい欲望が強くなるとネガティブな依存の青になるらしいし、拒絶してはねのけるのはネガティブな赤のエネルギーで、欲しいのか欲しくないのかわからない混乱はネガティブな黄色のエネルギーらしいけれど、これはオーラソーマの考え方なので、僕はそんなに良く知らない。 いずれにしても、第三チャクラ(第三身体)の欲望を持ったエネルギーのパーツのどれかに自己同一化したりしなかったりしているように思う。 今朝、ベランダで栽培している小松菜が虫に喰われて、穴が開いて少しショック。せっかく丹精こめて育ててたのに全滅した。 しかし僕は♪眼に映るすべてのことはメッセージ♪と受け取れるほど幼子ではないし、すべてを意味深にとるヘッド・トリップは、もうアシッドともに遥か昔に卒業したつもり。 人さまのことは気になるけれど、できるだけ他人のことは考えないようにしている。 なんのせいなのかわからないけれど、調子は良い。 つい一昨日も、バーバラ・ブレナン・ヒーリング・スクールを優秀に卒業して、六ヶ月先まで予約の埋まっているKさんに、特別に二ヶ月に一度くらい光の手での癒しを受けているのも、ひとつの要因だろう。 そのおかげで、チベット仏教のカルマに出会ったと思っている。意図ラインというものをまっすぐにしてもらっているからだ。 初めて受けたときに、昔、セドナの和尚アカデミーで、銀色の特別手術室で、メタ・フィジカル・サージェリー(形而上学的手術)を受けたときの、真っ裸の僕の周りでワドゥダやスボードやアルビナなインディバァやコマラが、僕のオーラを引っぺがしたり、切り取ったりしていた手法と、似ている印象がしたので、続けて受けることにしたのだった。 ワドゥドゥは僕の第三の眼と首の担当で、細かく薄皮をはがすような作業をしながら、「クリスタル!」とか「オーラソーマの何番」とか、「和尚マーブル!」とかみんなに指令して、僕は切り刻まれ、オイルをふりかけられ、三時間以上の手術が終わると、みんなぐったりとして白衣にはオーラソーマが血糊のようについていて、いやー、ほんとうに驚愕の体験だった。 「到達したい」というマインドのパーツと、「たどり着けない絶望」のパーツのふたつのエネルギーから距離をとるスペースを創りだすことが、手術のメインの目的だった。 それからはおおむね淡々と仕事をする生活ができるようになった。 バウル愛の歌の下巻の449ページの質問と答を、新瞑想法入門を編集したワドゥドゥは、僕にプレゼントしてくれた。 この経験については、最近、もしかしたら役に立つ人がいるかもしれないので、少しずつこれから書いていこうかとも思う。 しかし、それほどの強烈さはないけれど(ひとりだし)、手法的には似たものを感じるバーバラ・ブレナン・ヒーリングのKさんが言うには、「4、5、6、7のチャクラが、玄関を開けたときからすっきりクリアーになっていてびっくり。神経系統がゆるまって統合されている感じがする。」と僕のからだをスキャンしての感想。 「ああ、そうですか。」ということで、僕はサイババの写真の飾ってあるKさんのベットで、ヒーリングを受け取った。 最初はその写真があるだけで、部屋から出て行こうかと思って、文句をいって、押入れに隠してもらったのだが、我ながら変わったものだ。和尚にこだわらなくなったのか、欲望に負けているのか、明晰な黄色が足りないのでわからない。 しかし、最近はサウンドレゾナスを自分でしてパソコンに僕の声を録音すると、ゴールド(内なる知恵)の周波数がかなり高く出ている。その内なる声のいうところでは、バーバラ・ブレナン・ヒーリングは僕のガイドと相談しながらのヒーリングだし、セドナのメタ・フィジカル・サージェリーは、和尚と相談しながらの方法だった、という違いがあるかと思える。 その日は、ヒーリング以外にもKさんとかなりつっこんで、夜九時から夜中の三時まで話をした。 解剖学やら医学やら勉強して、今は蜂のデーヴァ(精霊)と相談しながら、人類の意識進化のためのエッセンスを作ったりしているので、そのミツバチの話はおもしろかったなあ。 パズルのピースのひとつとしての自我の確立とグランディングのために1から4のチャクラをサポートするエッセンスと、全体のなかの自分の役割を意識して宇宙とつながるために4から7のチャクラをサポートするエッセンスを使って、その経験をレポートするというお役目を授かった。 こういうことに特に敏感な人にということで選ばれた。最近、身をもっての人体実験が多いなあ。考えてみたら僕の人生はずっとそうだなあ。 子供の頃、誰にも教えられていないのに何十分でも三角倒立をしていた。頭の血が下がって良い感じなのだ。小学校から帰ってきたら、何十分でもし続けてた。倒立しながらお菓子食べたり、テレビも見てた。過去生できっとガンジスの岸辺とかでしてたんだね。当時は、これをしたらノーマインドになって、世界革命が起こせるとかいう新興グルについてたんだろうなあ。しばらくしたらまたマインドが戻ってくるのがよくないところだけど、思考はなくて気づきもないボーとした平和なインド人だったんだろうなあ。 トランスミッター・リレーもアバヤに憶えてもらって、もう何度目かの施術中。受けるたびにすっきりとする。 こんな色のついたペンライトの電球の光だって、僕の皮膚の境界線を超えた外側から来るものだけれど、抵抗していたら受け取れないなあ。だいたい内側とか外側とかってあるのかなあ。 だから、僕としては、せめて光について考えたり、光に眼がくらんだり溺れたりするよりも、光が照らす僕の無意識を見るようにしたいけれど、あまり高い周波数をいっぺんに注ぐのは、それなりの危険性もあるとかいう話をKさんと話し合ったりもした。 ゲームにはルールがあるとして、どんなアイテムをそろえたりしたら次に進んでいけるかの秘密のゲームのルール解説本のようなものがアティーシャの教えだと思っているが、ルール違反の禁じ手で、ゲームをひっかりかえすのもおもしろいなあ。 しっかりと努力してきた先輩達は、ご褒美をうけとってもいいんじゃないかなあ。 僕はどっちのエネルギーにもブレーキをかけずに、両方に気づいてる気づきを広げていこうと思う。 今日はクンダリーニだったり、昨日はチャクラ・サウンドだったり、その前はヴィパッサナだったり毎日違う瞑想だけど、ずっと瞑想を欠かしていないので、色んなエネルギーと体験が変化しても、それに気づいている気づきの喜びに勝るものはなく、こんな生活を続けられる毎日に感謝している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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