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パソコンを整理していたら、映画「沈黙」を題材に、第五チャクラについて書いている文章が出て来た。フェイスブックら掲載した覚えもないし、ユニティインスティテュートのブログに掲載したのかと思って調べたが見当たらない。もしかしたら書きかけで、ほったらかしにしてたのかも。日付を観ると2017.2とあるからこの頃に書いたのだろう。約一年前に書いたものだがここに掲載する。
結局僕はこの映画は未見であるし、忙しいコマラともずいぶん会ってない。 近所に住む親友のコマラにひさしぶりに会った。近況報告とともに、話題の映画「沈黙」についての話で盛り上がった。 深刻そうなので僕は未見なのだが、コマラはすごく良かったという。 何が良かったのかというと、信仰でもない、信念でもない、スピリチュアリティーとは何か?というテーマの映画だと言う。 「しかし結局は神は沈黙しているんだろう?」と僕が安易に言うと、 さすがのコマラちゃんは「そこがいいんじゃない」と言う。 なるほど、キリスト教宣教師が信念を手放して、理想を捨てて、生き甲斐もアイデンティティーも捨てて、 転びバテレンになり、踏み絵を踏んで、それでも生きていく時に、「沈黙」が残ったということらしい。 そう聞くと、これは第五チャクラについての話じゃないか。 と、お互いにサトルボディヒーリングの一期生(笑)であるから話が合う。 (第五チャクラの表層は、考えや信念、信じ込みでできていて、中心は「沈黙」である) それで、映画では、「沈黙」が残って、その後に、生それ自体の祝祭があったのか? と聞くと、そこまでは描かれていないという。 例えば、ドストエフスキーの白痴の公爵が 「すっかり途方にくれてしまった人でさえ、これは素晴らしいなと思うような美しいものが、 至るところに転がっているではありませんか。赤ん坊をごらんなさい。 神々しい朝焼けの色をごらんなさい。育ちゆく一本の草をごらんなさい。・・・」 と叫んだような歓喜はなく、たぶん荒涼とした景色が続く。 予告編から推測するにそんな感じだ。 沈黙から、クリエイティブな新しい人生が生まれてきたわけでもなく、 ただ沈黙と、宣教師でもないし、外国人でもない、何者でもない、ただのひとが残ったという。 映画はそこまででしか描いていないとしたら、それがまた今の時代のわれわれには合っている。 春はまだ遠く、暗雲たれこめた冬の季節を生きてるんだから、アセンションとか威勢のいいこと言うひとはどこかうさんくさい。 沈黙から融通無碍な創造性がわいてくるはずなのだけれど、それはそのタイミングが来た時にわいてくるものなんだろう。 今は、何かを信じたり、何かにこだわったりして苦しむことを手放した後の、 空っぽなスペースに、淡々と生きているひとが多いんじゃないだろうか? それで、GAPのなかにくつろぐことを求めて、瞑想することに関心を持つひとが増えているのではないか? 瞑想して、マインドフルになったら、Googleのように発展成功するからじゃなくて、 実は、ひとびとの無意識は、何もない空間にくつろぐことを求めているのではないか? 心臓をばくばくさせて、わくわくしたり、どきどきしたりすることに多くの人は疲れている。 トランジッション(移行期)というのは、何もない空間に耐える強さが必要だ。 忍耐があれば、春はやってくるはずだ。 春になれば、今まで違う、もっと本質的な生が、その沈黙の移行期から生まれてくる。 という期待や夢も捨てて、ただ沈黙にくつろぐ。 その時、「まったくシンプルで,何の期待も抱かぬ一粒の砂になる。 地につきさえすれ ば,夢を抱いたりつまらぬ衝動が起こる余地はなくなり,やっと修行が役に立ち始める。 ちゃんとお茶をいれることを覚え,横道にそれずまっすぐ歩くことを知り始める。 生活に対するアプローチはもっと単純で直接的なものになり,耳にする教えや読む本が自分のものになってくる。 一粒の砂として,あるがままに,期待や夢を抱かずやってゆくための確信や励ましになってゆくのである。」 と、チベット仏教の先生トゥルンパは言った。(チョギヤム・トウルンパ・リンポチェ「タントラー狂気の知恵」より) とわいえ、どんどんこだわるものがなくなって、転びバテレンのように生きるには、忍耐もいるし、勇気もいる。 だから、時々は友だちに会って、見栄を張らずに、素のままでいれる関係も大切だ。 瞑想会に行ったり、グループに参加するのも、そういう時間をもてる効果がある。 コマラちゃんからは、ドクター・ストレンジについてのめちゃくちゃしぶい見解を聞いたけれど、それはまた今度。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.02.26 18:20:06
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