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バス停地名学のすすめ

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2010.03.09
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カテゴリ:千代田区
(前回からのつづき)

ここは江戸城外郭門のひとつ、呉服橋門の跡地で、郭内と市街地を結ぶ廓門橋として架けられた呉服橋は、日本橋などと同様に慶長年間(1596~1611)の創架と伝えられ、古くは後藤橋の名があり、呉服橋門外に幕府呉服御用の後藤縫殿助の屋敷があったことに因むといわれます。明治13年、江戸期からの木橋が石橋となり、大正3年からは鋼橋となりましたが、戦後の昭和26年、濠の埋立てとともに撤去されました。

橋を越えると、永代通りの左右には呉服町の町名もありましたが、昭和3年に周辺の元大工町や檜物町などと合併し、呉服橋に町名が変わりました。現在のように八重洲1丁目の一部となるのは、昭和29年からです。

呉服橋交差点から外堀通りを北へ歩くと、すぐに日本橋川に架かる一石橋があります。大きな石造りの親柱が印象的なこの橋は、江戸時代初期からの古い橋で、橋のすぐ西側が、外堀と日本橋川の分岐点でしたが、呉服橋方向への外堀が埋立てられて後は、神田橋方向への外堀も、日本橋川の一部として捉えられています。

江戸時代、橋の北詰には幕府金座御用の後藤庄三郎の屋敷地が、そして南詰には先ほどご紹介した後藤縫殿助の屋敷地があり、「後藤」を「五斗」ともじり、「五斗」+「五斗」で「一石」と名付けたと伝えられます。いかにも江戸っ子らしいユーモラスな命名といえるでしょう。大正11年改架の鉄骨コンクリート花崗岩貼りの橋は、惜しくも平成九年に現在の橋に架け替えられましたが、大きな親柱の一基は残され、都電時代とともに歩んできた橋の面影を後世に伝えています。

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最終更新日  2010.03.09 23:04:57
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