本のタイトル・作者
まっとうな人生 [ 絲山 秋子 ]
本の目次・あらすじ
生まれ育った福岡を離れ、今は富山県に住んでいる三十七歳の「あたし」。
農機具の会社で販売をしている十歳上のアキオちゃんとは、九州の工場に出張していた時にバイトしていた居酒屋で出会った。
やがて結婚し、十歳の娘・佳音もいる。
双極性障害を抱え、再発と寛解を繰り返し、自分のエンジンをうまくふかせないまま、「たびのひと」として、ここにいる。
引用
あたしは、いつまでまっとうに生きることができるのか。それとも、こんなのはごくごく短い時間で、たちまち大事なひとたちを裏切って、狂気の海に沈んでしまうのか。少しはあらがうかもしれないけれど、正直なところ、どんな楽しい思い出よりも狂気のほうが強いことをあたしは知っている。その網にひっかかるか、ひっかからないかというだけだ。
この先、健康でいられる時間のことを思う。死にたいとは思わないでいられる時間のことを。
そんなことを思わなくて済むひとのことも、思う。
感想
2023年044冊目
★★★
「子供の一日は長い。あたしの一日は短い。」からはじまる書き出しの冒頭がとても良くて、「ああ、わかる、この人の書くものがすきだ」と思いながら何ページも読んじゃう、そんな感じの文章を書くひとだ。
冒頭には手書きでゆるい感じの富山の地図が描いてあって、「『まっとうな人生』の舞台」とある。
富山なんてもう全然土地勘もないしわからないの極みなのだけれど、この話を読んでいると空気が澄んでいるのだろうな、という漠然とした感想を持った。
冬の朝のような、張り詰めたつめたい空気。
主人公は、九州で精神病院に入院していた頃の知人「なごやん」に再会する。
ここらへんからはいまいち描写や話の流れも好きな感じじゃなく、流されるようにさーっと読んだ。
(今調べたら、これ『逃亡くそたわけ』という、なごやんと主人公の前段作があるのね!?)
それでもやっぱり、著者の細部の描き方が好きだなと思った。
このひとが書くものが、この人が世界を見るそのカメラが好きだな。
たとえば、おもに文意をとって引用すると、
子供はいろんなことを忘れ、大人は忘れることを恐れる。
子供にはブレーキのかけ方ばかりを教え、アクセルの踏み方を教えない。
大人は子供のように「あ、そっか」と明るくやり直すことが出来ない。
子供は視野が制限されていない。大人は見えている範囲が生きる場所と決めつける。
人生が東京から博多に帰る新幹線なら、あたしの人生はもう広島を過ぎている。
スマートにはなれなくても、大人だからなんとか生きていくしかない。
何がしたくて、どこに行きたいのか、いい年をして何を考えているのか。
出口のないトンネルはブラックホール、明けない夜は宇宙。
「母は一人しかいない。一度しか地球に接近しない彗星のようにたった一人なのだ。」とか、ちょっと意味わかんないんだけど(彗星…)、わかる、のだ。
主人公が、自分が結婚して子供がいて生まれ育った街じゃないところで暮らしていることを、驚くべきことだ、と思う。
私にはこれ、すごくよく分かる。
幼い頃の私が恐れていたことは、「おとなになるまで自分が生きられないだろう」ということだった。
私はきっと、この世界に耐えきれないだろう。
おとなになるまでにきっと、死を選んでしまうだろう。
それは確信に近いもので、幼い私はずっとその「くらやみ」を見つめていた。
私は死を恐れていたのではなく、自らの死が周囲に齎す影響を恐れていた。
いくつになれば、許されるのだろう。
どんな方法なら、許されるのだろう。
どこまで行けば、許されるのだろう。
ずっとずっとそれを考えて、おとなになること、しかないのだと思った。
ここから出られるようになったら。
自分の力で、ここを離れられるようになったら。
どこか遠くへ行こう。
仕事について、ひっそりと辞めて、いなくなろう。
死期を悟った猫が姿を消すように。
おとなになるまで生きているために、信仰を持とうと思った。
近くの教会へひとりで通い始めた。
けれど救われることなく、自分だけの神様を求めてさまよう。
それは私が、一桁の子供だったときの話。
あの頃の私が、今の私を見たら、きっと「これは私じゃない」と首を振るのじゃないかしら。
おとなになって、凡庸に、平然と生きる私に。
高校生の時、進路を選ぶ段階で、クラスメイトが結婚や子供を将来の想定に入れているのを、ただ私は呆然と、愕然と、聞いていた。
この子達は、生きていくつもりなのだ。
このままおとなになって、おとなになってもなお。
終わりではなく、その先を。
苦しみのエンドロールの後を。
けれど私はやがて摩耗して鈍化して、忘却する。
延々と流れるエンドロールを見限って、客席を立つ。
死ににくなるから、と大学を卒業して就職しなかったことを棚に上げて、働く。
結婚する。子供を生む。
私は今、思ってもいなかった未来にいる。
それでも時折、「くらやみ」と目が合う。
動けなくなるあの「くらやみ」。
神様の光を持っても照らせなかったそれ。
私は懐かしく足を止める。
そしてその泥濘にいて思う。
きっとこの世にいるまっとうな人は、死にたいなんて思わずに生きているんだろうなと。
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