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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号6(その6) その5からの続きです ホワイト選手が1年で6番にドロを塗ったけど そのあとは金本さんが挽回してくれた 監督としても着けたよね 今日現在までで背番号6を着けた最後の人が金本さん ということでいちおう「6」の最終回だよ
金本知憲 外野手 金本は野球の名門広島の広陵高校を卒業後、一年浪人したあと東北福祉大学へ進む。大学時代は佐々木主浩や矢野輝弘、斉藤隆などのちにプロで活躍する選手たちとともに活躍し、平成4(1992)にドラフト4位で広島東洋カープに入団した。広島時代の11年間は背番号10。 もともと線が細くシーズンを戦い抜く体力も不足しており、ゴロを打って足で稼げと言われる程度にしか見られていなかったが、身体を鍛えることで3年目から変わっていく。 平成6(1994)年、90試合に出場し257打数69安打43打点、打率.268を記録して主力選手へ近づいた。特に17本塁打を打ったことでそれまでの金本のイメージが一新された。この年が初の二けた本塁打だが平成23(2011)年まで実に18年連続で二けたを打ち続けていくスラッガーの誕生だった。 フルイニング連続試合出場が始まったのも広島時代で、平成11(1999)年7月21日の阪神18回戦が起点となっている。 金本は平成14(2002)年にFA権を取得、広島と前交渉を行った。ここでは球団が「FA権を行使しての再契約による残留」を認めない意向を曲げなかったため、結局FA権を行使して他球団へ移籍する方向になった。 タイガースの星野仙一監督は、濱中が成長過程とはいえ、チームの柱となる選手がいない現状に鑑み金本獲得に全力を注ぐ。「プロ野球全体のこと考え、タイガースに来てくれ」と口説き落とし、金本も熱いものを感じてタイガース入りを決断した。 平成15(2003)年、タイガース移籍1年目は3番に固定され、金本もその役割を意識して18盗塁を記録、赤星の盗塁との絡みもあって早打ちも控えボールをよく見てリーグ最多の93四球を選んでいる。532打数154安打77打点19本塁打で打率.289という数字はやや物足りないが、FA移籍1年目のプレッシャーを差し引けば十分な貢献と言える。 金本の加入は大きな成果で、この年のタイガースはリーグ優勝。ダイエーホークスとの日本シリーズは3勝4敗と惜敗したが、金本は第4戦のサヨナラを含むホームラン4発を放っている。 平成16(2004)年、新監督に就任した岡田彰布は金本を4番に据える。期待に応え打率.317、ホームラン34本と1年目のつなぎ役ではなく長打力を発揮したポイントゲッターに変貌、113打点王でタイトルを獲得している。 平成17年(2005)年は、キャリア唯一の大台越えとなる40本塁打、これまたキャリアハイの125打点、打率.327と三冠王並みの数字を残し、リーグ優勝の立役者として大活躍の年となった。もちろん文句なしでリーグMVPに選ばれている。 平成18(2006)年4月9日の横浜戦でカル・リプケンの世界記録を抜く904試合連続フルイニング出場の新記録を達成する。 また、連続試合出場のほうは平成23(2011)年4月14日まで続いて1766試合を記録している。これは衣笠祥雄の2215試合、鳥谷敬の1939試合に次ぐ第3位の記録である。 右肩の負傷は尾を引き、バッティングにも影響して成績は低迷、平成24(2012)年9月12日に現役引退を表明した。この年の6月に1500打点と2500安打を記録して大きな節目を超えたことで、区切りがついたかもしれない。 3年間評論家として外から野球を見ていたが、平成27(2015)年10月17日にタイガース新監督を受諾。3年間空き番になっていた「背番号6」を再び背負う。
金本監督の辞任後、令和元年から令和5年(2023)年現在まで、背番号6は空き番のままになっている。タイガースにとって意味深いこの番号を次に背負うのは誰か、注目していきたい。
みなさんお疲れさまでした 金本さんはホントにタイガースに貢献してくれたよね 2003年と2005年の優勝は金本さん抜きではできなかったんじゃない? 成績が毎年高レベルで安定してたもん 先代の本文には書かれてないけど罪なのは俊介選手だったよね 肩の負傷のとき練習中にぶつかった相手が俊介選手でこれがフルイニング連続の断念につながってる 連続試合出場をとめた盗塁失敗も俊介選手 広陵高校の後輩でかわいがってもらってたんだけどねえ 俊介選手も不本意だったろうな~ 二度もねえ・・・
さて背番号6はこれでおしまい 次は「7」なんだけど今年(2023)は新外国人のノイジー選手が着けてます 若い番号だけに過去には多くの名選手が着けてるよ 楽しみにしててね 背番号7へ続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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