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タイガース非公式サイト2代目

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2023年03月04日
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背番号7(その2)

その1からの続きです

4人目の「背番号7」は のちにタイガースの監督になる大物金田正泰さんが着けてるわよ 監督としては選手に評判が悪かったようで 殴られたこともあるんだって でもタイガースの背番号7を認知させた最初の人は この金田さんで間違いないよ 

 

金田正泰 外野手

金田は当時日本統治下だった朝鮮の出身、昭和24(1949)年に日本人女性と結婚して帰化している。

京都平安中では春夏合わせて5回甲子園に出場する。左投げ左打ちで俊足の好選手だった。昭和16(1941)年に1週間ほどタイガースの松木謙次郎が平安中野球部をコーチをしたことがあり、当時キャプテンだった金田を高く評価している。その縁もあって昭和17(1942)年にタイガースへ入団することになった。

最初につけた背番号は「28」。「7」に代わるのは昭和19(1944)年からだ。途中でなぜか昭和25(1950)年だけ1年間「21」を着けたが、翌年から引退までまた「7」を着けた。

 戦前は3シーズン経験しているが芽が出ていない。昭和17年から19年までの3年間のトータルの数字は、170試合432打数88安打24打点4本塁打で、打率は.203に過ぎなかった。足が使えて積極的に盗塁を仕掛けているが、3年間で26回試み、成功15失敗11と成功率は高くない。

​ 選手として開花するのは、終戦の翌年、昭和21(1946)年からだった。この年の金田は人が変わったように打ちまくり、438打数152安打61打点1本塁打、打率.347で首位打者になっている。まだ1リーグ時代で152安打は当時のシーズン最多安打の新記録だった。
     ​        ダイナマイト打線 左から2人目が金田
 この年を含め、昭和30(1955)年まで10シーズン連続で100試合以上に出場しレギュラーを守り、そのうち6シーズンで3割をこえている。しかしながら、二けたの本塁打を打ったのは現役中に1シーズンしかない。

在籍16年、実働15年の通算では、1476試合5354打数1527安打568打点55本塁打、打率.285という立派な成績を残している。

もっぱら1番を打つことが多かったが、俊足は盗塁よりも、広い甲子園を十分に生かした三塁打に現れており、通算103本という数字は、2023年現在でも、福本豊の115、毒島章一の106につぐ歴代3位の大記録だ。1シーズンに18本(これは現在もNPB最高記録)も打ったことがあるだけにベースランニングも上手かったと想像される。

昭和31(1956)年は、有名な「藤村排斥事件」の首謀者とみなされ、出場機会が失われていき、翌昭和32(1957)年を最後に現役生活を終えている。

 引退の翌年、昭和33(1958)年には二軍監督に就任、翌年途中から一軍コーチとなっている。この2年間も背番号7を引き続き着けていた。

昭和35(1960)に一軍監督となって背番号は「30」に代わる。この番号はタイガースでは創設以来金田まで、監督が着ける番号だった。

 この年はなんとか3位Aクラスで終わったが、翌昭和36(1961)年は開幕からチーム状態が悪く最下位を低迷する状態になり、6月6日に球団から「休養」を命じられて事実上の退任、シーズン終了後に退団し評論家生活となる。

 昭和47(1972)年、プレーイングマネージャーとなった村山監督の強い要請でヘッドコーチに就任し、ここから3年間「73」を着けた。

開幕から波に乗れない村山監督が4月21日に指揮権を返上して現役一本に絞ると宣言したため、事実上の監督となる。ただし、表面上の監督はあくまで村山のままだった。成績が5割に戻った5月13日に金田は指揮権を村山に戻すことを球団社長に申し出たが、戸沢一隆社長は受け入れず、そのままシーズン終了まで金田に事実上の指揮をとらせた。

 一方の村山はこのシーズンを最後に監督を辞任、現役も引退する。これが金田に追い出されたように見える形となったため、藤井栄治、権藤正利、江夏豊などの村山シンパから反感を買うことになる。

 昭和48(1973)年、正式に監督に就任した金田は、ペナントレースでは首位から最下位までが6.5ゲーム差のなかにひしめく混戦で優勝争いを展開した。そんな中で村山シンパの選手たちとは冷え切った関係になり、特に権藤、藤井、江夏とはお互いにマスコミを通して批判を言い合うほど関係が悪化していき、逆に上田次郎をかわいがって偏重に扱うようになる。

 残り2試合でマジック1となった10月20日の中日戦、金田監督は中日キラーの上田ではなく江夏を先発に起用し、2-4で敗れる。1日空けて甲子園でのシーズン最終戦、巨人の高橋一三の前に散発4安打完封負け。目の前で巨人の優勝が決まった。

 胴上げを阻止しようと観客がグランドになだれ込み、巨人の選手に暴行を加えるなど球場は大騒乱状態になったため巨人は胴上げができず宿舎に帰った。なんとも後味の悪い幕切れだった。

 中日戦で江夏、巨人戦で上田という起用は、様々な批判や論争を巻き起こしたが、金田は首脳陣と相談の上「後半戦の上田は不調で大きく負け越しており、エースである江夏の実績とプライドに賭けた」と言っている。また江夏も「大事な試合では勝ち星の多いほうを選ぶのは当然。自分の先発が間違っていたとは思わない 打たれた自分が悪い」と語っており、この一件に関しては「決してわざと負けようとしたわけなどない」と両者納得しているようだ。

 シーズン終了後、11月23日のファン感謝デーで権藤が金田に対し暴言の謝罪を求めたが応じられなかったため殴りつけるという事件が起きる。権藤はそのまま引退を宣言。藤井栄治はトレードされる。

 権藤を慕う江夏はこの件で「金田監督とは一緒に野球ができない」と言ってトレードを志願するが、球団は認めず残留、金田監督も翌年の指揮を執ることになる。

 昭和49(1974)年のシーズンは出足好調だったが失速して4位。史上最低勝率だったこともあって退任する。
 この年、入団一年目の掛布雅之を周囲の反対を押し切って一軍で積極的に起用して定着させる。ドラフト1位の佐野仙好とサードのポジションがかぶっており、1位を差し置いて6位の掛布を使うことにはフロントからも強い批判が出たようだが、金田は無視して使い続けた。
 もちろん金田が見た第一印象も「体も目立って大きくないから、正直なところ2、3年ファームで体を鍛えて、いずれ守備要員でもなればと、そういう感じの選手でしたな」というものだった。しかしすぐに掛布の資質を見抜いて、批判されながらもシーズンで使っていった金田の目は確かだった。掛布ものちに「金田監督がいなかったらのちの自分はなかった」とまで語っている。

 

塩見栄一 投手

塩見はすでに背番号5で紹介している。タイガース背番号史 5の2 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

2年間「5」を着けてのち、昭和25(1950)年に1年だけ「7」を着けたが理由はよくわからない。結局この年は一度も公式戦登板はなく、そのオフに引退。

 

まとめ

 金田さんは監督としてのほうが色々あったようね

 でも現役の成績もりっぱだね 三塁打が多いのは驚き

 甲子園にラッキーゾーンができたのが昭和22(1947)年5月26日だったんだよ この時からグランドは狭くなってるんだけど 金田さんは三塁打を打ち続けてるのね 18本打ったのもゾーンができてからなの

 先代は「ラッキーゾーンのフェンスは金網だったからクッションボールが跳ね返ってこなかった」っていうのね だからかえって三塁打は増えたんじゃないかって

 へえ まあそうかもしれないねってことにしとこう

 塩見さんについては活躍してないからよくわからない
さて 明日3月5日はナゴヤ球場へ教育リーグの中日vs阪神の試合を見に行く予定 ナゴヤドームはWBC練習試合で盛り上がったけど行けなかった
 明日は開幕をファームで迎える可能性が高い選手が中心になるとおもうけど 期待をこめて観てくるね!






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Last updated  2023年03月17日 02時15分14秒
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