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タイガース非公式サイト2代目

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2023年07月31日
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背番号12(その6)

「背番号12」の6回目です 

いままで見てきたように「そうか!あの選手が」って思うのが「12」ね 特にこれから先は聞けば「うんそういえばそうだな」って思い出す選手が出てくるよ

今回も3人を紹介します まず古屋さんが引退した翌年から着けたのがドラフト1位の黄金ルーキー!あの人です

安達智次郎 投手

安達は神戸市長田区出身。兵庫県では野球の強豪と言える村野工業へ進む。エースとして2年生の夏と3年の春選抜に甲子園に出場しているが、村野工業はこの時の夏が初出場、春は14年振り2回目だった。夏は1回戦で専大北上に惜敗、春は1回戦第1試合で堀越高校に敗れて、甲子園では未勝利に終わる。

しかし、大型左腕として阪神や巨人などがラブコールを送り、ドラフトの目玉の一人として注目されていく。

1992(平成4)年の秋、ドラフト会議は松井秀喜に4球団が重複して巨人が交渉権を獲得し、阪神は外れ1位で安達を指名した。

1年目の1993(平成5)年はウェスタンで17試合4勝7敗、防御率3.36と結果を残す。
 2年目の1994(平成6)年は、シーズン途中で約3か月のアメリカ野球留学を経験する。デトロイトタイガース傘下のマイナーチームとはいえ本場の野球を経験させるとは、球団の期待のほどがうかがえる。

1995(平成7)年には登録名を「安達克哉」に変えるが、ウェスタン公式戦成績は19試合で2勝4敗1セーブで防御率5.93、ルーキーイヤーより内容が悪くなっている。

1996(平成8)年にも球団は再び安達をアメリカに派遣したが目立った効果が見えず伸び悩む。5年目となった1997(平成9)年には背番号を「99」に替えてみたが結果につながらず、投手としての進退が問われることになる。

6年目の1998(平成10)年に外野手へ転向したが結果は残せず、翌1999(平成11)年には野村克也監督から投手に戻ることを薦められて再挑戦するもウェスタンですら白星がなく、戦力外となって引退した。

本来の安達は最速150キロの剛腕で、三振を狙って勢いで勝負するタイプだった。しかし3年目にあまりの制球難を見かねたコーチがフォームの改造を奨めたことで球威が落ち、持ち味を発揮できなくなって一軍の公式戦で投げる機会もないまま失意の引退だったと言われている。背番号12は4年間着けたに過ぎない。
 なお、野村監督時代に打撃投手の不足からお呼びがかかり、2000(平成12)年から2002(平成14)年までの3年間、背番号「110」を着けて打撃練習で投げていた実績がある。

リード・シークリスト 内野手

安達が背番号を替えて空いていた「12」は1997(平成4)年6月に緊急補強で入団したリード・シークリストが引き継いだ。

この年は暗黒時代の真っ最中で、藤田平監督が失敗に終わって吉田義男監督が再々登板になった年で、タイガース史に汚点を残す「ミスターレッドソックス」マイク・グリーンウェルが入団し、監督曰く「つむじ風のようでしたな」というくらいあっという間に引退・帰国してしまったあの年である。

 もう一人の外国人野手フィル・ハイアットも全く振るわず、球団は慌ててシークリストの入団を決めた。前年はパイレーツ傘下の3A級で打率3割越え、17本塁打の成績を残しており、緊急にしては好い選手が取れたと思われたがそうではなかった。

 6月終わりごろからスターティングオーダーに入れてみたが、25試合で52打数10安打4打点の打率.192。ホームランもなく、8月10日の出場を最後に、シーズン中に解雇されてしまった。背番号12を背負ったのは3か月ぐらいという、何しに来たかわからない助っ人だった。

星野 修 内野手

埼玉県大宮市(現さいたま市)の出身で、1988(昭和63)年に「最後のドラフト外入団選手」としてタイガース入団。もらった背番号は「68」だった。

 入団後4年間は二軍暮らし。5年目の1993(平成5)年に一軍公式戦に初出場するが16試合に出ただけ。翌1994(平成6)年はわずか1試合出場に留まっている。

 7年目の1995(平成7)年に67試合に出てようやく足掛かりをつかみ、翌年には84試合と出場数を伸ばす。

 9年目の1997(平成9)年には前述のように外国人が不振だったことで自己最高の117試合に出場し、内野すべてのポジションを守った。この年はチーム2位の20二塁打を記録してレギュラーへの期待も膨らんだ。
 1998(平成10)年、背番号は「12」へと出世したが、出場は59試合に減り、翌年からも89試合、37試合、55試合と伸びず、守備固めや代走など便利屋になってしまった。

 2001(平成13)年のシーズン終了後に戦力外通告を受け、近鉄バファローズの入団テストを受けて採用され移籍する。

 近鉄では3年間プレーし、2年目には111試合で12本塁打、打率も.274とよく働いた。

 2005(平成17)年には近鉄球団消滅のため選手配分ドラフトにより楽天ゴールデンイーグルスに移籍したが20試合の出場に終わり、戦力外となって引退している。

 左の好打者の印象もあるが通算打率は.252に過ぎず、走・攻・守のいずれも一流の域には遠かった選手だろう。

 

まとめ

 安達投手は松井秀喜さんの外れ1位とはいえ ものすごく期待されてた投手だったみたい 高校時代には150キロ超えてたそうだし いつの時代も大型の左投手は渇望されてるからね でも入団後は伸び悩み フォームの改造も裏目に出て大成できないまま終わってしまったのね 肝臓の疾患で2015年から入退院を繰り返し 2016年1月に41歳の若さで亡くなりました ご冥福をお祈りします

 シークリストさんは典型的な「緊急補強→ダメ外人」という阪神お得意のパターンだったようね タイガースにはこういう人多いのよ!

 星野さんは 先代が言うには確かにミートがうまい打者だったって印象があるんだって でも長打が期待できないのと 守備では便利屋になってしまって 存在感がなくいつの間にかいなくなってたらしいわ・・・
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Last updated  2024年05月21日 17時01分00秒
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